真の幸福とは ― 未発表番外編


前回の「幸福の追求」に続けて書いた原稿ですが(2001年7月15日執筆)、発表せぬままハードディスクの片隅で眠ったままになっていました。いまここで未発表番外編として掲載します。

 人間は神にむけて造られている。だから人間が真に幸福になるためには「神が存在すること、人は神を愛さなければならないこと、私たちの真の至福は神のうちにあることであり、私たちの唯一の不幸は神から離れていることである」と知らなければならない、とパスカルは言う。これはパスカル個人の思想ではなく、カトリックの教えの基本でもある。

 だが、パスカルはこうも問いかける。「もしも人間が神にむけて造られたのなら、なぜこのように神に逆らうのだろう。」

 神は人間を「清く、罪なく、完全なものとして創造」された。人間は神とともにあって幸福だった。ところが人間は高慢におちいり、神と等しいものとなろうとしたために、神から離れ、悲惨のなかに沈んでしまった。その結果、人間の真の本性は失われ、罪と悪への傾きを抜きがたくもつようになってしまった。だから「私たちは真理を望むが、自分のうちに不確実しか見いださない。幸福を求めるが、惨めさと死としか見いださない。真理と幸福を望まずにはいられないが、確実さにも幸福にも達することができない。」

 こうして、ある人は幸福と欲望の充足とを混同し、また別の人は真理の追究を口にしつつ神に逆らう。それはひとえに人間が自己に執着するからにほかならない。

 たしかに神はキリストによって「人間を贖い、神を求める人々に対して救いを開」かれた。神の恩寵の助けを得て、真の幸福に向かう道が開かれたのである。しかし、神は人間を「圧制的に服従」させようとは思われない。求める人にも、かたくなに拒む人にも、等しく自由を与えられるのである。その自由をどのように行使するかは、すべて人間にゆだねられている。まさにそれは、人間が真に自由であることの証拠であるが、人間にとってつまずきのもとにもなる。

 「見ることだけを願っている人々のためには十分な光があり、反対の気持ちをもつ人々のためには十分な暗さがある。」だから光に気づくように、とパスカルは訴えてやまないのだ。


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