考える葦 |
なにか言いあらわしがたいものを、それでもなお言葉でもって語ろうとするとき、人は「たとえ」を使う。見事なたとえは多くの人に知られるようになり、やがて皆が説明抜きでも理解できるようになる。「考える葦」もそうしたたとえのひとつといえるだろう。 パスカルは『パンセ』のなかで人間を葦にたとえながらこう語っている。 「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・」 折れやすくもろい葦は、たしかに人間の弱さを象徴するにふさわしいものかもしれない。だが、なぜ「葦」なのだろうか? そもそも『パンセ』はキリスト教弁証論として構想された。懐疑論者や無神論者に対してキリスト教の正しさを論証することがパスカルの目的だった。 とくに人間の悲惨とキリストによる救いは『パンセ』の中心テーマのひとつである。パスカルは原稿を準備しながら聖書を丹念に読んでいた。そしてメシアについての預言や、イエスの受難の場面から浮かび上がってきたある植物に注目する。前田陽一氏は「考える葦」の由来を次のように述べている。 ・・・メシアの預言、荊の冠と対をなす葦の杖、十字架上へさしのべられた葦の棒と、キリストの一生の大事な時点に三回も登場してくるところから、「いためられた葦を折ることがない」(『マタイ福音書』一二の二〇)キリストを「考える葦」の尊厳の守り手と考えてのことだろうと思う。おそらくパスカルは、人間の弱さだけでなく、キリストの贖いをも象徴するものとして「葦」を選んだのではないか・・・ もちろん、由来をあれこれ考えなくとも、このたとえを理解し味わうことはできるだろう。しかし、さらによく知ろうとする努力こそが「考える葦」にはふさわしい。「だから、よく考えるようつとめよう。」そうパスカルは付け加えているのである。
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