幸福の追求


 「すべての人が、幸福になることを求めている。そこには例外はない。どれほど異なる方法を用いようと、みながその目的に向かっている。」(パスカル)

 私たちは誰でも、ほしがっていたものが手に入ったときの喜びを知っている。だが、その喜びが永続しないということも、やはり経験を通じて知っているはずだ。とくに、物質的な満足や肉体的・感覚的な快楽から得られる喜びは、束の間のものでしかない。やがて興奮はさめ、満足感もいつかは消え失せるからである。

 人間は幸福を願ってやまない。幸福が得られないときは、なぜ私はしあわせになれないのかと苦しむ。また逆に幸福を感じているときは、いつかはそれを失うのではないかと不安になる。

 「人間のなかにはかつて真の幸福が存在したが、今ではその空虚なしるしと痕跡しか残ってはいないので、人間は彼を取り巻くすべてのものによってそれを満たそうとむなしく試みる」とパスカルは言う。では真の「幸福」とはいったい何だろうか。私はそれを「究極の善」という言葉で置き換えることができると思う。「究極の」といったのは、それが財産や快楽とはちがって永続的なものでなければならないからである。そして、私たちが真に愛することができ私たちを真に幸福にできるものであるなら、それは「善」なるものであるに違いないからである。

 「神よ、わたしに、慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを望ませてください。」

 このアシジの聖フランチェスコの祈りは、真の幸福とは何かを私たちに示唆している。それは、何かを所有することによってでもなければ、人から与えられることによってでもなく、逆に自らを放棄し与えることによって、はじめて到達できるものなのだ。なぜなら「わたしたちは、与えることによって与えられ、すすんで赦すことによって赦され、人のために死ぬことによって永遠に生きることができるからです。」


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