パスカルの賭け


 「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?

― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。

― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」

 すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が、結果的に一つの選択となるからだ。

 賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。

 反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。

 35年前、はじめて『パンセ』のこの断章を読んだとき、正直当惑した。逃げ道はふさがれている。賭けるしかない。しかも、理屈から言えば、どちらに賭けるべきかは明かではないか。

 しかし、たとえ頭ではそう理解しても、人はそれほど簡単に賭けに踏み切れるわけではないようだ。パスカルも言うように、信仰に近づくためには「理性を行使」しなければならない。しかもその上で、「理性を超えるものが無限にある」ことを認め、心で信仰を受け入れることが必要である。なぜなら「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである」からだ。

 理性が納得し、心情が同意するためには時間がかかる。そのためには人との出会いと導きも必要である。実際に、信仰は人から人へと直接に伝えられ教えられるものであって、導き手のないまま人は信じることはできない。

 私がようやく賭けに踏み切ったのはパスカルとの出会いから20年後のことだった。


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