信仰と理性


 「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。」パスカルが言うように、信仰には理性を超えたところがある。古典的な三段論法を使えば、次のようになるだろう。

 もしも神がすべての存在に先立つ「存在」であり、われわれがその中に生きている自然も神の創造によるものだとすれば、まさしく神は自然を無限に超えていると言うべきである。ところで信仰とは、その神を信じることである。とすれば、信仰とはまさに超自然的行為に他ならない。

 自然のものごとにさえ理性を超えたものが無数にある。超自然的なことについては言うまでもないだろう。

 だが、それは理性の役割を否定することでは決してない。最初から理性を無視するようなら、それは信仰ではなく、迷信や盲信と呼ぶべきである。

 パスカルはこうも言っている。「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。」ただし、気を付けよう。これは理性を徹底的に行使し、理性によってとらえられる限界までものごとを追求することを前提として述べられているのである。その上で、理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については、心情のはたらきにゆだねる ―― これこそ、すぐれて理性的行為と言うべきだろう。警戒すべきはむしろ「理性を排除すること」と「理性しか認めないこと」という「二つの行き過ぎ」である。

 信仰と理性は両立できないというのは、だから間違った先入観である。だれも自分が知らないことについては確信がもてないように、信仰も、学び知る努力を伴わなければ人は神を信じることもその教えを受け入れることもできないのである。より良く知ることによって理性が納得し、心情が同意したとき、はじめてそれは深い信仰となりうる。パスカルにならって言えば、「理性の服従と行使、そこに真のキリスト教がある。」


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