あらためて—考える葦


 常識はしばしば人を誤らせるが、良識は裏切らない・・・

 常識と良識——似たような言葉だが、どう違うのだろう。ある国語辞典には「常識=その社会が共通に持つ、知識または考え方」「良識=健全な判断力」と記されている。妥当な定義と思うが、もう少し付け加えたい。

 常識は、ある集団や社会の中で共有される知識や考え方であるが、他の社会でもそのまま通用するとは限らない。だから、常識を基準にしてものごとを判断するのは危険である。たとえば、玄関で靴を脱ぐ習慣を考えるとよい。日本では当然とされていることでも、他の国では非常識となるというような例——またはその逆の例——はいくらでもあるのだ。

 他方、良識とは「ものごとをよく判断し、真なるものを偽なるものから分かつ能力」(デカルト)をいう。理性と言い換えても良い。それは「この世で最も公平に配分されているもの」——つまり、だれもが十二分に与えられているはずのものである。

 だが、理性をもつだけでは十分ではない。大切なのは、この能力を正しく用いることである。

 常識だけに頼るとき、私たちは固定観念、偏見に陥る。常識を「ものさし」として裁断しようとするとき、私たちは真実を見誤る。そうした誤りを避けるため、自分がどういう尺度でものを見ているのか、それを冷静に吟味するのが良識あるいは理性の役目である。

 ただし、注意しよう。もしも逆に、理性を絶対視するようなことになると、私たちは傲慢となり盲目となる。「理性を超えるものが無限にある」(パスカル)ことを謙虚に認めなければ、今度は理性が私たちを裏切るのだ。

 二年前、「考える葦」(パスカル)をテーマにはじめたこの連載だが、今回、同じ断章をもって締めくくることにしたい。

 「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。(・・・)だから、よく考えるように努めようではないか。そこに道徳の原理がある。」


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