ラシーヌと古典的節度


 フランス古典劇にはいくつもの「きまり」があったが、そのひとつに「節度」あるいは「ふさわしさ」と呼ばれるものがある。舞台で演じられる出来事は節度を越えたものであってはならない。観客にショックを与えるような暴力的な場面などもってのほかである。主人公もヒーローとしての品格を備え、その言動は礼節をわきまえたものでなければならなかった。

 ラシーヌの悲劇『フェードル』を例に取れば、イポリットの恋という設定はこの「節度」からきたものである。古代ギリシャ以来、イポリットは恋を蔑み女性を嫌悪する若者として描かれてきたが、これは一七世紀のフランスでは受け入れがたいものとなっていた。恋愛蔑視は当時の文学的常識に反していたし、女性嫌悪は同性愛を連想させ、悲劇のヒーローどころかスキャンダルの的にさえなりかねなかったからである。そのため、一七世紀半ば頃になると、イポリットは恋する青年として登場するようになった。ラシーヌも、当時の観客の好みを尊重し、その例にならったのである。

 だがラシーヌは、規則に従うだけでなく、それを利用して劇的効果を高めることも忘れてはいない。フェードルにとってイポリットの恋は予想すらしなかったことだった。「イポリットは恋を知っている、それなのに私には何も感じない!」(四幕五場)

 狂おしい恋と明晰な罪の意識とに苛まれる女性——それがラシーヌの創造したフェードルであると前回紹介したが、作家はさらにもうひとつの新しい要素を付け加えている。嫉妬である。

 「ああ、こんな苦しみ味わうとは!/なんという責め苦が待っていたことか!」(四幕六場)

 嫉妬の苦しみと罪の意識とに打ちのめされたフェードルが、その悲痛な思いを格調高い詩句を通じて語ってゆくこの場面は、フランス歴代の悲劇女優が技量の限りを尽くして演じる見せ場となった。それはまた、古典的節度のうちに激しい情熱を凝縮させるラシーヌの天才が、遺憾なく発揮された名場面でもある。


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