愛すべき天地


 「人間は天使でもなければ野獣でもない。」以前紹介した『パンセ』の一節だが、次のように見ることも可能だろう。――天使は肉体をもたぬ霊的存在であり、けものは体をもつが霊魂をもたない。ところが人間は霊魂と肉体をともにもつ存在である。霊魂を忘れて肉の快楽に走れば野獣と化し、肉体を忘れて霊的なものだけを追求しようとすると、観念に凝り固まった怪物になってしまうだろう。

 人は観念だけでは生きられない。自分が霊と肉とを備えた存在であることを承知しながら生きるとき、はじめて私たちは人間らしい生き方ができるはずである。

 信仰も同様である。現実の生活が私の信仰を肉付けてゆくとき、はじめて「信仰と生活の一致」とでも呼ぶべきものが実現するはずである。

 そのためにはどうすればよいのか? キリスト者にとって、それはキリストに習うことである。キリストは、宣教生活に入るまでの三〇年間を、パレスチナの片田舎で大工の息子としてすごした。つまり、キリスト自身が日常生活と労働の価値を、その模範によって私たちに示しているのである。だから、私たちもそれに習えばよい。

 「兄弟である人々のいるところ、希望の実現をめざし、仕事に従事し、愛情を捧げるところ――これこそ皆さんが日々キリストと出会う所です。この世の最も物質的なものの真っ只中こそ、神と人々に仕えつつ自らを聖化すべきところです。」(ホセマリア・エスクリバー「愛すべき天地」)

 たとえどんなにささやかなものでも、日々の仕事を神から与えられたものとして、愛をこめて完全にやりとげる努力を重ねる。そうすれば、私たちは信仰と生活を一致させることができるだろう――それが、エスクリバー神父が生涯を通じて説いたことだった。

 「天と地はあの遠い地平線のあたりで一体になっているようだ。ところで、天と地がほんとうに一体となるのは神の子であるあなたの心の中である。これを忘れないでほしい。」(ホセマリア・エスクリバー『拓(ひらく)』)


戸口/エッセーに戻る