翻訳者は裏切り者? |
《Traduttore, traditore》というイタリア語の警句がある。「翻訳者(トラドゥットーレ)は裏切り者(トラディトーレ)」つまり、どんな翻訳も原文を忠実に伝えることはできず、どうしても原著者の意を裏切ってしまう、という意味である。 胸にぐさりとくる警句だ。私の職業は短期大学のフランス語教師である。だから、フランス語を日本語に、また日本語をフランス語にうつす作業は日常茶飯事だし、ときには一冊の本をそっくり翻訳することもある。つまり、私も翻訳者のはしくれ、「裏切り者」の一人というわけだ。 たしかに、百パーセント完璧に言葉をうつしかえることは不可能である。なかでも詩は最悪だ。ご存じのように、一篇の詩と相対するとき、私たちは、その詩を形づくっている言葉の意味だけではなく(あるいは意味以上に)言葉のもつ音や響きやリズムも重要な要素として味わう。ところが音とか響きとかはまさに翻訳しようがないのである。だから「裏切り」の度合も、詩の翻訳のときが最もひどくなるわけである。 それなら散文の翻訳はどうだろう。散文の場合は音よりも内容・意味が主になるので詩を訳すほどひどくはないにしても、やはり「裏切り」は避けられない。 歴史、文化、風俗、習慣、生活様式が違えば、ものの見方や考え方も違ってくる。そのため、単語とか表現そのものが、こちら側の、あるいは相手側の言葉に全然ないことがよくあるのだ。 いや、たとえ単語とか表現が双方の言葉に存在していたとしても、「ずれ」はつねに起こりうる。ひとつだけ例をあげてみよう。 《croissant》というフランス語がある。「三日月」のことだが、カタカナにすれば「クロワッサン」つまり三日月の形をしたパンである。私たち日本人には、「三日月」と「クロワッサン」とはまったく別の単語である。だから、この二つの語から連想するものも、それぞれ別だろう。しかも厄介なことに、フランス語の《croissant》からフランス人が抱くはずのイメージは、さらにまた違うのである。 フランス人にとってこの語は、歴史的にはイスラムとくにオスマン・トルコ帝国(とその旗印)を連想させるものだった。さらに付け加えるとこの語は「成長・増大する」という意味の動詞の現在分詞形からきたものだ。また経済「成長」などと言うときに使われる語《croissance》(クロワッサンス)も関連語のひとつで、音からもすぐ連想しそうである。しかし翻訳では、こうしたイメージや意味の広がりを半分も伝えることができない。「三日月」であれ「クロワッサン」であれ、訳語はどれかひとつに決めなければならないし、決めたとたんに、もとのフランス語がもっていた広がりも切り捨てるほかないのである。 以上は、ほんの一例にすぎない。だが、ある言葉を別の言葉にうつそうとすると、今述べたようなことからはじまって、その他さまざまな困難にぶつかるのである。だからといって、私は翻訳が不可能だとは思わない。たしかに、原文に百パーセント忠実な翻訳はありえない。しかし、言葉による伝達ということを考えるとき、同じ言葉であっても、「完全な」意志疎通となると実は容易ではない。 日本人同士が日本語でしゃべっているはずなのにどうも話が通じない。日本語で書いてあるのに、意味がよくわからない。そんな経験は誰にでもあるだろう。外国語の翻訳でなくとも、言葉が人間の思い通りにならないことはよくあるのだ。 けれども私たちは、何かを人に伝えようとすれば、どうしても言葉に頼らざるをえない。それに、私たちは誰でも人に伝えたい、理解してもらいたいと思うことをもっているものだ。そして、その伝えたいことが外国語でしるされているとき、私たちは、翻訳という手段にうったえるほかないのである。 だから、言葉という気難しくて扱いにくい友とはうまく付き合わねばならない。そして、人に伝えようとする「メッセージ」があるのなら、そのメッセージを可能なかぎり正確に伝えようと努力することである。翻訳の場合にはさらに、メッセージが「言葉の壁をこえて」どこまで伝わるか、ということが問われるわけだ。訳者の力量もまさにそこで試されるのである。 ただ、翻訳者が心せねばならぬことがある。程度はともあれ「裏切り」が避けられなないとすれば、なおのこと謙虚でなければならない、ということだ。それに、翻訳者は自己の存在を−できるものなら完全に−消し去る必要がある。語るのはあくまで原著者であって、訳者ではないからだ。 完全を求める努力を惜しんではならない。しかし「完全主義」の魔にとりつかれてもいけない。人間の力に限界があることは謙虚に認めつつ、しかし可能性を少しでも切り拓く努力を続けること、それが大切である。そしてこれは、翻訳に限らず、どんな仕事についても言えることだろう。 「翻訳者は裏切り者」という警句は、学生時代に恩師から教えられたものである。もう二十年以上も前のことだ。それ以来この警句は、私の座右の銘であり続けている。
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