むかし校歌があった


 むかし、長崎外語には校歌があった。いや、廃止されたわけではないから今もあるはずなのだが、歌われなくなって久しい。

 詞も曲もいかにも校歌然としている。言葉の響きは美しいとは言いがたく、曲もいきなり一オクターブ上のレから始まったりして歌いにくい。正直言って好きではなかった。

 ただ、気になる文句が二番にあった。「真理は人を自由にし、真理は人を解き放つ」という詞である。あきらかにこれはイエス・キリストの言葉「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書八・三一〜三二)をふまえたものだ。

 念のために言えば、「自由にする」と「解き放つ」は「真理はあなたたちを自由にする」(ラテン語ではveritas liberabit vos )の動詞を二通りに訳したものである。そしてこの動詞は、イエスの時代にはしばしば奴隷を解放するという意味で用いられていた。

 では「真理はあなたたちを自由にする」とイエスが言うとき、その「自由」とはどのような意味だったのか。当時のユダヤ人が求めていた「自由」はローマ帝国の支配からの独立、隷属状態からの解放だった。しかし、イエスの使命は人間を罪と死から「解放」することにあった。イエス・キリストという「真理」を知り、イエスという「道」を通って神の「命」にあずかることだった。

 しかし、キリスト教的な意味を離れても、この言葉はなお考察に値する。

 自由とは、自分の意志で選べること。しかし、それは好き勝手にすることとは違う。好き勝手とは、自己の感情や欲望をコントロールできないだけのことだ。自己中心の行動である。要するに、欲望とエゴイズムの奴隷に他ならない。

 自由とは、束縛や強制といった外的な力に支配されないことでもある。だが、それだけではない。偏見や誤謬といった内的で目に見えない力はもっと厄介である。偏見や誤謬にとらわれている人がはたして自由といえるだろうか。誤った考えに支配されているがゆえに誤った選択をしたとき、その人ははたして真に自由だったといえるだろうか。

 人間は自由であるがゆえに選ぶことができる。良いものを選ばずに、悪いものを選び取ることさえできるのである。だがそれは、自由の正しい使い方とは言えないだろう。

 悪いものとは知らずに選んでしまうこともある。無知に支配されているとき、正しい選択はできない。いや、選択することさえできないかもしれない。無知の奴隷である状態から解放されたとき、はじめてその人は選択が可能となる。自由となる。真の意味で自由を行使できる状態になるのである。

 長崎外語の創立は一九四五年一二月。原爆そして敗戦から四ヵ月後のことだった。校歌がつくられたのはそれから二〇年後の一九六五年のことだが、「真理は人を自由にし、真理は人を解き放つ」という歌詞には作詞者青山武雄が創立時に抱いていた切なる思いが込められていたに違いない。


戸口/エッセーに戻る