夫婦の絆を生きて


 絆とは人と人を緊密に結びつけるもの、だから、夫婦の絆、家族の絆、友情の絆などと使われる。しかし、結婚した二人の男女を結びつける絆には、他の人間関係には決して見られない、特権的な意味がある。

 夫婦の絆は、友情の絆のように、それを維持してゆくことも解消することも個々人の自由な選択にゆだねられるつながりとは違う。また、親子や兄弟の絆のように、生まれると同時に定められる関係でもない。一人の男と一人の女が自由な意志によって互いに自分を与え合うことを誓ったとき、はじめて夫婦の絆はつくられるのである。

 しかも、これが最も大切なことだが、カトリック信者にとってはこの絆は神によって固められ祝福される秘跡でもある、従ってこの絆は二度と断ちきることができない。では、なぜ結婚は秘跡なのだろうか。

 「イエスがなぜ結婚を秘跡にされたかを理解するのは難しくありません。人類の歴史の始めから結婚は神聖な結合でした。結婚は、人類の次の世代を担う子供を産み、養育し、教育して、道徳を教えるために神が使われる制度なのです。したがって結婚が秘跡となるのは"当然"の事であると言えます。司祭職以外に結婚ほど神の恩寵を必要とするものはないのです。」(レオ・ジェー・テレセ『キリストの教え』)

 愛があれば、と言う人があるかもしれない。だが、愛とは何だろう。好きだという感情のことだとしたら、それをあてにすることはできない。なぜなら感情というのは受け身のものであって、しかも簡単にはコントロールできないから、これほど危険なものはないとさえ言えるくらいである。人間の不幸を主題とする物語やドラマは、多くの場合、この受け身的な感情(情念・情熱)にひきずられて破滅する男や女を描いたものである。文学や演劇の世界をみれば、その例は数限りない。

 結婚は制度でもある。しかし、それも二人の男女を生涯つなぎ止める力にはなり得ない。人間はエゴのかたまりなので、制度が自分の都合に合わなくなると、それを変えることもしかねないからである。倫理・道徳の規準ですら時代とともに変化してゆくことは、歴史を振り返っただけでも明らかだろう。かつては法律で禁止されていた行為が今では法律によって認められている--そんなことがどれほどあることか。

 人間の感情はあてにならず、制度も法律も歯止めにはならない。しかし幸いなことに、結婚は神の定めた制度である。しかも、神は人間の弱さをよくご存じなので、この制度にさらに秘跡の恩寵を加えられた。「人間にはできぬことも、神にはおできになる。」(ルカ一八・二七)だから、神を信頼する限り、そして神への信頼を夫婦が共有しながらお互いに信頼し合うことによって、日々直面する小さな困難や、時として訪れる大きな苦しみにも耐える力が得られるのである。

 たしかに私たちは欠点だらけの存在である。夫婦が「日々お互いの避けることのできない過ちや性格的短所を我慢して、何年も何年も共に暮らしていくことは容易ではありません。しかも、これらの短所にもかかわらず、善良さと高潔さにおいて成長できるように互いに助け合わなければならないのです。しかし少しずつ、お互いに相手に順応していくようになります。そうなると、片方の短所が他方の人格の完成に役立つものとなり、まさに二人の違いが、二人を完全に一致させるものになるという事が起こるのです。これは、とても美しい展開です。」(『キリストの教え』)

 こうした展開は私たち(私と家内の二人)にもよく実感できることである。「美しい」というにはいささかためらいもあるが、結婚してすでに二七年、性格も生まれ育った環境も関東と九州が遠いのと同じくらいかけ離れているのに、不思議なくらい一致できるのである。とくに一五年前、家族そろって洗礼を受けてからは、二人ともますます仲良く楽天的になってきている。今にして思うに、きっと最初から摂理が働いていていたに違いない。私たちはそうとは知らずにその働きに身をゆだねていたが、あるときそれに気づき、それを受け入れた。そのことによってもっと自由になった。それが実感である。

 結婚は召し出しである。結婚する男女は結婚生活を通じて神に到る道を歩むように--それが神の望まれることであり、そのために必要な恩寵を与えるのが婚姻の秘跡の意味である。だから、夫婦の絆とは、人間の自由を神の意志に一致させることによってつくりだされ強められる、恵みに満ちた交わりといえるだろう。夫婦が互いに信頼し合いながら共に生きようと努めるとき、二人は限りない「愛」のささやかな似姿として生きることになるだろう--そう私は信じている。


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