17世紀前半といえば、フランスにおいて演劇が社会的な地位を固めた時期である。題名からもうかがえるように、俳優という仕事が「職業」として成立するようになっただけでなく、ピエール・コルネイユの例でもわかるように、すぐれた劇作家であることが社会的名声をもたらすようになった時期でもある。そのことはコルネイユ自身が『舞台は夢』L'Illusion comique(1635年初演)のなかで、登場人物の口を借りながら高らかに歌い上げている通りだ。「今や演劇は、非常に高い地位にあるのじゃ。だから、みんなが熱愛しておる。あなた方のころには軽蔑されておったがの。今日では、知識ある人たちみんなの愛好するものでな。パリの話題、地方の憧れじゃ。王侯の好む最も楽しい娯楽だし、一般の人たちの無上の楽しみでもあり、貴族方の気晴らしでもある。数ある娯楽のうちでも第一のものとなった。(…)非凡な才能の持ち主が、夜を徹して劇作に励む。芸術の神アポロンに最も美しいまなざしで見染められた人たちが、巧みな芸の一端を披露する。人間を富で推し測らねばならぬなら、演劇も収入の良い職業の中に入ろう」(第5幕最終場、伊藤洋訳)。
上に紹介した題名等からも推察されるように、Le théâtre professionnel à Paris. 1600-1649 は国立文書館 Archives nationales に保管されているパリの公証人の記録のなかから、17世紀前半における演劇の関わる文書のうち、俳優・劇団に関する文書を集めたものである。なお参考までに付け加えれば、同じく17世紀前半のパリの公証人記録のうち劇作家に関する文書は、本書の姉妹編ともいうべき Écrivains de théâtre. 1600-1649, Documents réunis et présentés par Alan Howe, à partir des analyses de Madeleine Jurgens, Paris, Centre historique des Archives nationales, 2005 に収録されている。
公証人の記録に基づく演劇研究といえば、古くは Eudore Soulié, Recherches sur Molière et sur sa famille, Paris, 1863 があり、20世紀に入ってからは S. Wilma Deierkauf-Holsboer や Madeleine Jurgens の仕事をあげることができるだろう。なお、Le théâtre professionnel à Paris と Écrivains de théâtre の両方でHoweを支えていたのもJurgensである。こうした一次資料の発掘という地味な仕事が演劇研究の進展にどれほど貢献しているか、説明の必要はないだろう。
さて、Le théâtre professionnel à Paris の構成だが、前半は Howe による研究(劇団・俳優たちの半世紀にわたる活動をたどったもの)、後半は458点の文書の Analyses(要約)と、そのうちとくに重要な20点の Transcriptions(全文転写)からなっている。文書の中には未刊文書 documents inédits が数多く含まれており、それが新たな発見につながっている。ひとつだけ例を上げて紹介しよう。
Transcription VII はフランスにおける職業俳優の先駆者ともいうべきヴァルラン・ル・コント Valleran Le Conte が1615年10月22日にパリでで新たに劇団を結成したことを記した文書で、その資料的価値は極めて高い。というのも、これまで長いあいだ、ヴァルランは1612年を最後にパリを離れてオランダに赴いたあと、間もなく死んだものと考えられていたからである。しかし、この文書が見つかったことで、彼は1615年にもまだ活動を続けていたことが確認されたわけである。またこの文書によって、これまでは仮説にとどまっていたことだが、ヴァルランが1613年から1614年にかけてハーグ Den Haag / La Haye、ヘント Gent / Gand、カンブレ Cambrai などで演じていた可能性がほぼ確かなものとなったのである。
そればかりではない。新たに結成された劇団は「悲劇、喜劇、田園劇その他の劇を演じる」と文書に記されているが、そのレパートリーにはアレクサンドル・アルディ Alexandre Hardy の12編の戯曲(悲劇6編、田園劇2編、幕間劇3編、ジャンル不詳の劇1編)が含まれていることが、この文書の2日前に締結された1615年10月20日の売買契約書(analyse 166)と突き合わせることによって明らかとなった。しかもその12編は、ヴァルラン劇団に加わっている俳優クロード・ユソン Claude Husson が所有者であることも文書VIIに記されている。Deierkauf-Holsboer によれば、ヴァルラン・ル・コントが座長として所有してい数々の戯曲は、アルディの戯曲を含め、すべて弟子の俳優ベルローズ Pierre Le Messier, dit Bellerose が受け継いだものとされていたが、この説は覆されたのである。しかも1615年10月の劇団協約にはベルローズの名前は記されていない。つまり、ベルローズは師匠ヴァルランの劇団を引き継いでいるわけでもない、ということだ。
話は変わるが、実は私も Archives nationales やアンジェ Angers にあるメーヌ・エ・ロワール県立文書館 Archives départementales de Maine et Loire で公証人記録を調べた経験がある。すでに長いこと中断したままだが、私はヴァルラン・ル・コントの生涯をたどりつつ論文を書いていた。そのさい、Deierkauf-Holsboer が取り上げていたある文書の日付に疑問をもち、パリに滞在する機会を利用して Archives nationales を訪れ、問題の文書を実際に手に取ってみたのである。その結果わかったことは「17世紀フランス演劇史研究ノート ― 1598年パリ:古文書の読み違いをめぐって」と題して論文にまとめ、私のホームページに掲載しているので、興味のある方はお読みいただきたい。
とにかくこれが事の発端で、その後はパリやアンジェに一定期間滞在する機会を得るごとに文書館に通い、あわよくば未刊資料の発掘も期待しつつ、400年前の文書の束を1枚ずめくったりしたものだ。私の文書館通いは1980年代末から1990年代後半まで、断続的に細々と続いた。限られた時間しか使えなかったので、作業にあたった日数は延べにしてパリとアンジェそれぞれで15日程度にすぎない。それでもパリでは50点ほど、アンジェでも2点の未刊文書を見つけ出すことができた。パリで私が見つけた文書のなかには Le théâtre professionnel à Paris に収録されているものもある(analyses 2, 3, 5, 6 [transcription I], 13, 19, 21 [transcription II], … など)。Howeの仕事には質量ともに遥かに及ばないが、同じ時期に同じようなことを彼もしていたのだと思うと、感慨を禁じ得ない。
ところで、私がアンジェで見つけた未完文書2点のひとつはアレクサンドル・アルディが名前を連ねている劇団協約文書(1600年3月22日)で、アルディ関連の文書資料としてはこれまで確認されているどの資料よりも古いものだった。しかもアルディは作家ではなく俳優として劇団に加わっており、また劇団の座長はヴァルラン・ル・コントではなく、ラ・ポルト Mathieu Lefebvre, sieur de La Porte だった。これは、アルディは1597-98年から1612年までずっとヴァルランの座付き作者を務めていたとする Deierkauf-Holsboer の主張とは明らかに食い違うものである。さらにこの劇団には、先に紹介したように1615年10月の時点でアルディの戯曲12編の所有者とされている俳優クロード・ユソンも加わっていた。この二人の関係が1600年にさかのぼることが、ここから明らかになったわけである。
しかもこの話には後日譚がある。アンジェの文書の transcription を私のホームページに掲載しておいたところ、それを Howe が見つけ出し、自分の論文で利用したいとメールで連絡してきてくれたのである。もちろん私は即座に快諾した。後日 Howe が送ってきてくれた論文は、私にとって良い記念となっている。
公証人の記録をはじめとする文書の発掘は今後も続けられるはずである。Archives nationales に保管されている膨大な文書のうち、まだ誰にも気づかれていない文書が残っていないと断言することはできないし、パリ以外の都市でも文書館で眠ったままの記録は必ずあるはずだ。今の私には、文書発掘のための時間も手段も事実上ない。Howe のような研究者がこの仕事を続けてくれることを心から願っている。