日本語版への序文
日本に着いた翌日のことでした。私は横浜の、緑豊かな広大な庭園を歩いていました。するとひとりの魅力的なお嬢さんが近寄ってきて、禅堂でお茶をさしあげていますからどうぞと誘ってくれたのです。30人ほどが集まって、輪になって座っていました。中央には着物姿の女性が二人、お茶の用意をしていました。そして私たち一人ひとりに絵柄のついた茶わんをはこび、それからまたやってきて、優雅にお辞儀をしてから熱い飲み物をついでくれました。
これが私にとって、世界でもっとも洗練された文化のひとつとの初めての接触でした。その後の滞在期間中、私は、日本国民が近代的技術を追求する一方で大切に守ってきた生活の知恵をもっとよく知ることができました。私が日本人の家庭を訪れると、そこでもやはり優雅なお辞儀とお茶で迎えられます。タクシーにのれば、運転手は白い手袋をはめています。東京に入ろうとするとき、道路の脇の掲示板が目につきました。それは神奈川県(人口800万)のその日の交通事故件数をしらせたもので、「死亡者−0、負傷者−99」と掲示されていました。そのとき私は知ったのです。日本という国は、交通安全対策においても運転者のマナーにおいても、路上での人命をもっとも大切にする国のひとつだと。長崎では、私は「原爆ホーム」を訪問し、被爆者たちを見舞いましたが、彼らは小さなオーケストラでもって私を迎えてくれました。たぶん、私が核兵器には一貫して反対し続けているということを聞いていたためでしょう。
ところがその日本で、西ヨーロッパのすべての国々とは反対に、今なお法律で国家がその一員の生命を奪う「権利」を認められていると知ったとき、私はどれほど驚いたことでしょう。それだけになおのこと私は、戸口民也氏から私の著書『死刑を問う』を翻訳したいと聞かされたとき、うれしく思ったのです。
これは私にとって、まさに人間の生死にかかわるこの問題について私がどう考えているかを、日本の兄弟である皆さんに知っていただくよい機会です。皆さんが私と共に考えてくださればと願っています。
死刑は犯罪を減少させるものでしょうか?
この合法的殺人は、世界人権宣言の「すべての人は、生命に対する権利を有する」(第3条)や「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない」(第5条)といった条文と両立するものでしょうか?
アムネスティ・インターナショナルは、世界中で、絞首・斬首・銃殺・石打ち・電気椅子・毒薬注射・毒ガスなどによる合法的殺人をやめるようにというキャンペーンを行っていますが、これは間違ったことでしょうか?
諸宗教は死刑をどう考えているのでしょうか?
「極刑」は、犯罪を防止するにはほんとうはどんな措置を講ずべきかを世論に考えさせないようにするためのアリバイでなないでしょうか?
これらの問いに対する答えについては、本文の各章をお読みいただければと思います。これはあくまでフランスの事例から引き出したものではありますが、明敏な知性で知られた日本人の皆さんのことですから、必要に応じて日本の場合の置き換えながらお読みいただけることでしょう。本書が刊行されたあと〔原著はフランスでは1977年に出版された−−訳者註〕、フランスでは1981年にギロチンは廃止されました。廃止反対派は、死刑の廃止は犯罪の増加をもたらすと予告していましたが、そのようなことはまったくありませんでした。この取り返しのつかない刑罰を放棄した他のすべての国々でもそれは同様です。
さまざまな分野で世界の第一線に立っている日本のことです。やがていつかは、国家が死刑執行人となることを拒否する国々の仲間にも加わることで しょう。