この本の原著は2017年9月にフランスで出版されました。フランスの社会学者ドミニック・ヴォルトンが企画し、2016年2月から翌2017年2月までに行われた12回の対話をもとにまとめたものです。原題は『政治と社会』Politique et sociétéで、政治と社会が大きなテーマです。ただ実際には、この対話の話題は、戦争と平和、政治と宗教、グローバリゼーションと文化的多様性、原理主義と政教分離、ヨーロッパと移民・難民、環境問題、不平等、エキュメニズムと宗教間の対話、個人、家族について…などなど、多岐にわたっています。つまり、現代世界が直面している諸問題を論じていると言ってよいでしょう。だとすれば、『政治と社会』という題名では少し漠然としすぎているのではないか、もう少しわかりやすい、しかもこの本の内容を端的に表すような題名にした方がよいのではないか… それでこの本の題名を、出版社からの提案により、『橋をつくるために ― 現代世界の諸問題をめぐる対話』とすることにしました。「橋をつくる」という言葉は、本書でもフランシスコ教皇が何度も口にしている、重要なキーワードです。わたしたちにできること、わたしたちがなすべきことは、まず「橋をつくる」ことだと。
現代世界が直面しているこれらの問題を、フランシスコ教皇はどう考え、それにどう向き合っているか ― その多くはこれまでに出された回勅、使徒的勧告、講話、スピーチなどですでに示されているのですが、一般の人々の手に届くものでは必ずしもありませんでした。対話という形でまとめられたこの本を読むと、それがよりはっきりと浮かび上がってきます。例として、この本の中から教皇の言葉をいくつか抜き出してみましょう。 たとえば、政治について、難民問題について、教皇は次のように語っています。
政治の要件はそばに寄り添うことです。互いに問題に向き合い、問題を理解することです。別のこともあります、説得ということですが、わたしたちはそれを実行しなくなってしまいました。たぶんそれは政治の最もデリケートで、最も微妙なところです。わたしは相手の言い分を聞きます、わたしはそれを分析し、わたしの言い分を相手に示します… 相手はわたしを納得させようとし、わたしは相手を説得しようとする、そうやって、わたしたちは一緒に同じ道を行くのです。(31ページ)。
問題は移住者たちの本国で始まっています。なぜ彼らは自分の土地を離れるのか?
仕事がないから、あるいは戦争のせいで。これが二つの主な理由です。仕事がないのは、彼らが搾取されているからです。(…)最初になすべきことは、わたしは国連で、欧州議会で、至るところで言ってきましたが、まずそこに雇用創出のための手段を見つけ出すこと、そこに投資することです。(…)移住のもう一つの理由は戦争です。投資があれば、仕事もあるでしょうし、国を出て行く必要もなくなるでしょうが、戦争が起こればとにかく逃げるしかありません。ところで、誰が戦争をするのか? 誰が武器を与えているのか? わたしたちです。(28~29ページ)。
教皇は、弱い人たち、貧しい人たち、困難な状況にある人たち、のけ者にされている人たちに寄り添うよう訴え、それを自らも実行しています。現代社会で冷遇されている若者と高齢者について、人間としての正当な権利を奪われている貧しい人たちについて、こう語っています。
わたしにとっては、若者たちが年配の人たちと接することが、とても大事なのです。高齢者は民の記憶、知恵です。若者は力です、ユートピアです。そして、若者と高齢者とのあいだのこの橋を、わたしたちは見つけ出さないといけません。若者も高齢者も、今日、この世界では、余計者扱いされているからです。高齢者を締め出すことは、民の記憶、わたしたちのルーツを捨て去ることです。若者はといえば、能力がある者だけがなんとかやっていますが、それ以外の者は、麻薬や失業で、脇に追いやられています。ところが、未来の富、世界の富、国の、民族の富は、この見捨てられた人たちの中にあるのです。彼らが互いに話し合う必要があるのです!(84ページ)
聖書は、神がその民の叫びを聞いてくださることを、わたしたちに思い出させてくれます。わたしもまた、皆さんと声を合わせて言いたいと思います。あの三つの「T」 ― 土地、家、仕事 ― をすべての人にと。前にも言いましたが、いま改めて繰り返します。この三つのTは神聖な権利です。(106ページ)
グローバル化する今日の世界に対して教会はどのような貢献ができるのか? 教皇はこう答えています。
対話によってです。対話なしでは、今日、何も可能とはならないとわたしは思います。ただし、誠実な対話であること、たとえ面と向かって不愉快なことを言わねばならないとしてもです。誠実な。「ええ、同感です」と言っておきながら、その後でこっそり別の話しをするような、そんな対話はいけません。教会は橋をつくることでもって貢献すべきだとわたしは思います。対話は文化と文化のあいだの「大きな橋」です。(72ページ)
フランシスコ教皇について、ドミニック・ヴォルトンはこう書いています。
そう、彼は、おそらく、ほんとうに、ラテンアメリカとヨーロッパのあいだに立つ、グローバル時代の最初の教皇なのだ。人間的であると共に控え目で、同時にかくも果敢な人、「歴史」をしっかりと踏みしめている人。彼の役割は、世界の政治指導者たちの役割とはまったく違うのだが、常に問題と対峙している。(15ページ)
フランシスコ教皇との対話は、自由で、形式にこだわらず、信頼に満ち、ユーモアあふれるものだった。親近感の共有。教皇はそこにいて、話しに耳を傾け、控え目で、「歴史」をその身に負い、人間に対して幻想を抱いていない。わたしは教皇と、どんな形式的枠組みからも外れた形で、その住まいで会い、言葉を交わしてきた、だからといってそのことが、教皇の、人の話しに耳を傾ける力、自由闊達さ、こだわりのなさのすべてを説明するわけではない。建前論のようなものは、ごくごく稀にしかなかった。(同)
フランシスコ教皇はたしかに型破りな人です。因習にとらわれない、自由闊達に物を言い行動する人です。だからといって、伝統を無視するわけではありません。伝統の意味も価値もよく知った上で、こう語っています。
伝統とは、銀行の休眠口座ではありません。伝統とは、途上にある教義、前進している教義です。(・・・)伝統は進んでいく、でもどんなふうにしてでしょう? 年月と共に固められ、時間と共に成長し、時代と共に純化される、というふうにです。伝統の基準は変わりません、本質は変わりません、でも、成長し、進化するのです。(308ページ)
― とても斬新な見方だとは思いませんか?
「迎え入れ、寄り添い、見極め、受け入れる」 ― 使徒的勧告『愛のよろこび』で示された四つのコンセプト、対話の中でも何度か取り上げられているこの四つのコンセプトは、フランシスコ教皇の姿勢を見事に表現しています。人々に寄り添い、人々と共に歩く人、教会の中に閉じこもらずに、外に出て、周辺に足を運び、貧しい人、虐げられた人、弱い人に寄り添う牧者 ― それがフランシスコ教皇です。
しかし、不正や悪に対しては、フランシスコ教皇は常に毅然とした態度を取る人でもあります。しばしば大胆な、しかも誰にでも理解できる説得力のある言葉で、現代世界に蔓延する不正や悪を糾弾する教皇の姿は、たとえば次のような言葉からもうかがい知ることができるでしょう。
世界はすべての国に対して、自然環境の保護と改善、そして社会的・経済的排除という現象を早急に克服するための、実効力を伴った決意と速やかな措置を求めています。排除という現象は、人身売買、臓器売買、子どもに対する性的虐待、売春を含む奴隷労働、麻薬取引、武器取引、テロ、国際的組織犯罪など、悲惨な結果をもたらしているのです。こうした状況は広がる一方で、犠牲となる罪もない人々の数はなんと多いことでしょう。だからわたしたちは、口先だけの宣言でもって良心の痛みを和らげようとする誘惑に陥ってはならないのです。わたしたちは監視を怠ってはなりません、わたしたちは、諸機関がこれらすべての災いに対して実際に効果的に戦っているかどうか、見守る必要があるのです。(57ページ)
ほんとうに、現代は罪の感覚を失ってしまったと思います。今日、一人のテロリストが自爆して五十人の人を殺しました。麻薬密売人たちがシチリアの運河で人々を溺死させるようなことも… まともな人なら《なぜ彼らはこんなことをするのか?》と思うでしょうが、その答えは、彼らは道徳の羅針盤を失っているということです。(211ページ)
ところが、こうしたフランシスコ教皇の姿は、日本ではあまり知られていません。キリスト信者の数が ― カトリックとプロテスタントそれにごく少数の正教会の信者を合わせても ― 人口の1%にも満たないこの国では、キリスト教のことをよく理解しているジャーナリストがほとんどいないこの国では、バチカンのことも教皇のことも、ほとんど報道されないからです。とても残念なことです。
わたしがこの本を訳そうと思いたったのは、知らないがゆえの無関心・無理解という現状を少しでも変えたかったからです。キリスト信者だけでなく、他の宗教を信じる人たち、無宗教の人たち、さらには無神論者たちにも、フランシスコ教皇を知ってほしかったからです。一人でも多くの人にこの本を読んでもらいたいと、心から願っています。
フランシスコ教皇について語りたいことはまだまだありますが、あともう一つだけ、教皇のユーモアのセンスを紹介しておきましょう。
わたしたちアルゼンチン人は傲慢なのですよ。それに、これは良いことではありません。それで、アルゼンチン人を槍玉にあげるジョークができるのです。アルゼンチン人がどんなふうに自殺するか、あなたはご存じですか? エゴのてっぺんまで登って行って、そこから飛び降りるのです。他に一つ、わたしを種にした笑い話があります。「それにしても、あの教皇はどこまで謙遜なんだ! あれはアルゼンチン人なんかじゃないね、フランシスコなんて名乗ったりしてさ、イエス二世ってすりゃあいいのに!」 これがわたしたちアルゼンチン人なのです!(265~266ページ)
ドミニック・ヴォルトンのことも少しは紹介しないと不公平になるのでしょうが、あいにく、わたしが紹介できることはそう多くはありません。彼の専門分野や業績については「ドミニック・ヴォルトン著作目録」をご覧ください。それに、「はじめに」や各章の導入部をなす文章、そして対話の中からも、ヴォルトンについてのさまざまな情報を見つけ出すことができるはずですし、彼の人柄や主張なども知ることができるでしょう。もしも足りないものがあるとしたら、彼の生まれた年、それと学歴でしょうか。ヴォルトンの研究拠点であるフランス国立科学研究センターの公式ウェブサイトによると、出身校はパリ政治学院 ― 政治家・外交官・ジャーナリスト・企業経営者を輩出する名門校 ― で、また社会学博士でもあります。では年齢は? あいにく見あたりません。非公式情報によれば、1947年生まれのようです。以上、とりあえず補足しておきます。
ところで、教皇とヴォルトンとが対話を通じてわたしたちに投げかけているメッセージについてですが、訳者があれこれ解説するよりも、むしろ読者に判断を委ねたいと思います。ヴォルトンが「はじめに」で書いているように、「読者という第三のパートナー」となって、対話の「場」にぜひ加わってください、二人の話に耳を傾けながら、ときには質問したり、同感したり反論したりもして、話題を、問題を共有してください。 ― いや、わざわざそう言う必要はないのかもしれません。二人のやりとりに立ち会いながら、読者はそれぞれ自由に考え、判断されるでしょうから。
最後に感謝の言葉を。まず、この本の翻訳・出版の可能性について貴重な助言と励ましをいただいたサレジオ会司祭・松尾貢神父さま、この本の出版を引き受けてくださり、翻訳のあいだも訳者に「寄り添って」くださった新教出版社社長・小林望氏、また、神学や教義上の問題などについて相談に乗ってくださった属人区オプス・デイ司祭・木村昌平神父さま、そして、的確なアドバイスと素早い応対で訳者をサポートしてくださった編集者・森本直樹氏に、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
2019年3月3日
戸口民也