教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛』42

(2009年6月29日)

日本語版:カトリック中央協議会、2011年 より
(なお、日付は漢数字を算用数字に改めました)


42 グローバリゼーションは、運命論的なものとしてとらえられることがあります。あたかもその力学が人間の意志とは独立した、人間不在の不特定の原動力や構造の産物であるかのようにです(102)。この点で、グローバリゼーションは確かに社会経済の過程として理解されるべきですが、これがその唯一の様相ではないと覚えておくことが有益です。目に見える過程の下では、人類自身がますます相互に関係し合うようになっています。人類自身は、単独あるいは集団としてそれぞれの責任を引き受ける中で、グローバル化の過程から利点と発展を得るはずである個人と諸民族から構成されるのです(103)。国境の消滅は単なる物理的な事実ではありません。それはまた、原因においても結果においても、文化的な出来事でもあります。もしグローバリゼーションが決定論的立場からとらえられたなら、これを評価し導く基準が失われます。人間的な現実として、それは、多様な文化的傾向の産物であり、その傾向は識別を必要とします。過程としてのグローバリゼーションの真理とその基本的倫理的基準は、人類家族の一性と善なるものへの発展によって得られます。したがって、超越へと開かれた世界規模の統合を目指した、人間を基盤とし、共同体を志向する文化的プロセスを促進するために、持続的な関与が必要です。

 いくつかの構造的な要素t――これらの要素は否定も誇張もされるべきではありません――にもかかわらず、「グローバリゼーションは、その性質上、良いものでも、悪いものでもありません。それは人々が作り上げるとおりのものになります」(104)。人間は、その被害者ではなく、愛と真理に導かれ、理性の光の中で行動するその主体者であるべきです。盲目的な反対は、誤解であり、偏見にみちた態度であり、この過程の肯定すべき局面を認識できず、結果として、発展の多くの機会を活用する可能性を逃す危険にさらされることになるでしょう。グローバリゼーションの過程は、適切に理解され、導かれると、世界規模で富を幅広く再分配する前例のない好機となります。しかし、この過程は、誤って導かれると、貧困と不平等を増大させ、グローバルな危機の要因にまでなりうるでしょう。民族間および民族内の新しい亀裂を生じさせる機能不全――いくつかは深刻な――を修正し、同様に、富の再分配が、貧困の再分配または増加という形で果たされないよう保障することが必要です。もし現在の状況が下手に管理されるなら、これは真の危険となります。長い間、貧しい民族が発展の固定された段階に残され、発展した民族の慈善による援助を受けることで満足すべきだと考えられてきました。パウロ六世は、『ポプロールム・プログレシオ』において、この精神に強く反対しました。今日、このような民族を貧困から救うために存在する物質的資源は、以前よりも潜在的には多いのですが、それらは、おもに、先進国の人々の手中に収められています。これらの人々は、資本と労働の移動性における自由化からより多くを得ているからです。したがって、繁栄の諸形態が世界規模で拡大することは、自己中心的、保護主義的、あるいは私的利権に向けられたような計画によって妨げられるべきではありません。実際に、新興国や発展途上国の関与によって、今日の危機をよりうまく管理することが可能になっています。グローバル化の過程に固有の推移は、多大な困難と危険を呈しています。それらは、人間を向上させる連帯という目標へとグローバリゼーションを導く、グローバリゼーションの根底にある人間的かつ倫理的な精神をつかむことができてはじめて克服できるのです。残念ながら、この精神は、しばしば個人主義的かつ功利主義的な性格の倫理的および文化的願望に圧倒され、あるいは抑えられています。グローバリゼーションは多面的かつ複合的な現象であり、神学的次元を含むそのすべての異なる次元の、多様性と一貫性において把握されなければなりません。こうして、人類のグローバル化を関係性――すなわち、交わりと財の分かち合い――として、経験し導くことが、可能になるでしょう。

(102)教皇庁教理省指針『自由の自覚—キリスト者の自由と解放に関する教書(1987年3月22日)』74 ( Libertatis Conscientia: AAS 79 [1987], 587) 参照。
(103)教皇ヨハネ・パウロ2世「カトリック日刊紙『ラ・クロワ ( La Croix ) 』掲載インタビュー(1997年8月20日)」参照。
(104)教皇ヨハネ・パウロ2世「教皇庁社会科学アカデミーに対するあいさつ(2001年4月27日)」。