教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛』29-30

(2009年6月29日)

日本語版:カトリック中央協議会、2011年 より
(なお、日付は漢数字を算用数字に改めました)


29 (…)神は人間の真の発展の保証人です。神は、ご自分の似姿として人間を造ることによって、人間の超越的な尊厳を確立し、「自分の存在を高める」という生来のあこがれを強めるからです。人間は無秩序な宇宙の中でさまよう原子ではありません(70)。人間は神の創造物であり、神は人間に不死の魂を授けることを望んで、つねに人間を愛しています。もし人間が偶然か必然いずれかの産物に過ぎないとしたら、もし人間が現実に生きている限られた世界に自分の願望を限定しなければならないとしたら、もしすベての現実が単に歴史と文化の中に納まる程度のものであり、人間が超自然的な生活において自分を超える運命にある性質を保有していないとしたら、成長、または進化について語ることはできても、発展について語ることはできないでしよう。国家が事実上の無神論の諸形態を宣伝し、指導し、あるいは実際に強制するならば、この国の市民は、人間の全人的発展に到達するのに不可欠な道徳的および精神的力を奪われ、神の愛に人間としてより惜しみなくこたえようとする中で新たな活力をもって前進するのを妨げられることになります(71)。文化、商業、または政治における関係において、経済的に発展した国または新興国が、人間とその運命に関するこの限定的な見解を、貧困国に輸出することがあります。これは、「過剰開発(72)」が、「道徳的に進歩していない(73)」という実体を伴うとき、真の発展にもたらされる弊害です。

30 こうした状況においては、人間の全人的発展というテーマは、さらに広範な意味をもつようになります。この発展のさまざまな要素は相互に関連し合っているので、諸民族の真の発展を促進するには、人間の知識のさまざまなレベルの相互作用を促進することが必要となるのです。発展またはこれに伴う社会経済対策は、合同で取り組みさえすれば十分に実施できるとしばしば考えられています。しかし、この合同の取り組みに、方向性を与えなければなりません。なぜなら、「社会における活動は必ず何らかの主義と関連づけられている(74)」からです。これらの問題の複雑さからみて、さまざまな学問分野が、組織的な学際的交流によってともに行動しなければならないのは明らかです。愛は、知識を締め出すのではなく、むしろ知識を必要とし、奨励し、内側から活性化します。知識は決して単なる知性の働きによるものではありません。確かに、知識を計算することや実験することに限定してしまうこともできますが、人間をその由来と最終目的に照らして導くことのできる知恵となることを望むなら、愛という「塩」で「味付け」されなければなりません。知識なき行動は盲目であり、愛なき知識は不毛です。確かに、「真の愛に動かされた人は、貧困の原因を発見し、それと闘う方法を見つけ、それを決然として克服するよう巧みに働くのです(75)」。目の前にある現象に対峙して、真理に根ざした愛が何よりも求めることは、知識の各レベルの特定の有効性を心得、尊重したうえで、知り、理解することです。愛は、諸学問における既成の文書の付録のような、後から付け足されたものではありません。愛は最初から諸学問を対話へと引き込みます。愛の要求は理性の要求と矛盾しません。人間の知識は不十分であり、科学の結論は、それ自体では、人間の全人的発展に向かう道を示すことはできません。それを超えたところに自分を置くことがつねに必要なのです。これこそが、真理に根ざした愛が要求するものです(76)。しかし、それを超えたところに自分を置くということは、決して理性の結論を排除することを意味するわけでも、理性の結果を否定することを意味するわけでもありません。知性と愛は別々の範疇のものではありません。愛は知性に富んでおり、知性は愛に満ちています。

(70) 教皇ベネディクト十六世「レーゲンスブルク、イスリンガー・フェルトでのミサ説教(2006年9月12日)」参照。
(71) 教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛(2005年12月25日)』1 ( Deus Caritas Est : loc. cit., 217-218 )参照。
(72) 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは――人間不在の開発から人間尊重の発展へ(1987年12月30日)』28 ( Sollicitudo Rei Socialis : loc. cit., 548-550)。
(73) 教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレシオ(1967年3月26日)』19 ( Populorum progressio : loc. cit., 266-267)。
(74) 同39 ( loc. cit., 276-277)。
(75) 同75 ( loc. cit., 293-294)。
(76) 教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛(2005年12月25日)』28 ( Deus Caritas Est : loc. cit., 238-240 )参照。