教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛』25-26

(2009年6月29日)

日本語版:カトリック中央協議会、2011年 より
(なお、日付は漢数字を算用数字に改めました)


25 社会的な観点からすると、パウロ六世の時代に多数の国ですでに存在していた擁護と福祉の制度では、今日の大いに変化した環境で、真の社会正義という目標を追求することが難しくなっており、将来においては、いっそう難しくなる可能性もあります。グローバル化した市場は真っ先に富裕国を、低コストで生産できる地域を探し出すよう刺激しました。それは、商品の価格を下げることによって購買力を上げ、国内市場の消費財を手に入りやすくするという意味において発展を加速するためです。その結果として、市場は、有利な財政制度や労働市場の規制緩和といった多様な手段によって、生産拠点を設立する海外企業の誘致を望む国家間に、新しい形態の競争を生じさせました。このような経過は、世界市場における競争上の優位を求める代価として、社会保障制度の縮小を招きました。その結果、労働者の権利にとっても、基本的人権にとっても、さらに社会国家の伝統的な形態に関連づけられる連帯にとっても、深刻な危険が生じています。社会保障制度は、貧困国だけでなく、新興国やもっとも早く発展した国でも、その役目を果たすことができなくなる可能性があります。この状況においては、国家予算政策において、しばしば国際金融機関からの圧力によって、社会保障支出が削減され、前からの、あるいは新しく生まれてきている危険性に対して、市民を無力にしてしまう可能性があります。労働者の結社による効果的な保護手段の欠如によって、このような無力な状態は、いっそう悪化します。社会および経済における変化の相互作用によって、労働組合は、労働者の利益を代表するという任務を遂行するのがいっそう困難になっています。その理由の一つとして、政府が経済的な便宜を理由に、しばしば労働組合の自由や交渉能力を制限することが挙げられます。こうして、伝統的な連帯のネットワークは、克服しなければならないますます多くの障害に直面しています。したがって、『レールム・ノヴァルム(60)』から始まる教会の社会教説の中で繰り返されてきた、労働者の権利を守ることのできる労働者の結社を促進するという要求は、現代においていっそう尊重されなければなりません。これは、国内だけでなく国際レベルでも協力の新しい形態が早急に必要とされている状況に対する、迅速で先見の明のある応答となります。

 規制緩和が進んでいく中で、労働力の移動性が重要な現象となっていますが、それは富の産出や文化交流を促進するという理由で、肯定すべき一面をもっています。それにもかかわらず、移動性と規制緩和を原因とする労働条件の不確実性は、それが蔓延するとき、結婚を含む一貫した生涯計画の設計を困難にし、心理的不安の新しい形態を作り出す傾向があります。その結果、社会的資源がむだにされることはいうまでもなく、人間の衰退という状況にも至ります。過去の産業社会の犠牲者と比べて、今日の失業は、経済的周縁化の新しい形態を引き起こしています。しかも当今の危機が、この状況をさらに悪化させるのは必至です。失業や、公的または民間支援への依存状態が長引けば、労働者の自由と創造性、およびその家庭および社会関係が弱体化され、そのために多大な心理的および精神的苦痛が引き起こされます。すべての人、とくに、世界の経済的および社会的財産の増加に関与する政府に思い起こしてほしいことは、擁護し、尊重しなければならない第一の資本は、人間、すなわちその存在全体としての人間だということです。「人間はすべての経済社会活動の作者、中心、目的だからです(61)」。

26 パウロ六世の時代と比較すれば、文化の次元における変化はいっそう顕著です。当時、それぞれの文化は、境界が比較的明確であり、一つの文化に融合させようとする動きに対して自らを守る力をはるかに備えていました。今日では、文化間の相互作用の可能性が大幅に増しており、そのため、文化間対話の新しいきっかけが生まれています。この対話が効果的なものになるためには、それぞれの対話の相手固有のアイデンティティに関するしっかりとした知識をもって出発しなければなりません。文化交流がますます商業化している今日では、二重の危険が生じることを忘れてはなりません。一つには、しばしば無批判に受容される文化折衷主義があります。すなわち、諸文化は安易に並び列せられ、おおむね同様で交換可能であるとみなされます。このような態度は、真の文化間対話には役立たない相対主義を容易に生み出します。社会の次元においては、文化相対主義の効果は、さまざまな文化集団が併存しながらも相互に分離したままで、真の対話の場をもたず、したがって真の一性も成立しないということになります。次いで、これとは正反対の危険も存在します。すなわち、文化平準化や、行動様式や生活様式の見境のない受容です。こうして、異なる国民や民族の伝統の深遠な意義が見失われます。個人が人生の根本的な問いかけに対して自分自身を確立していくのは、こうした文化と伝統においてなのです(62)。文化折衷主義と文化平準化に共通することは、人間本性から文化を分離することです。このようにして、文化は、もはや文化自体を超越する本性に基づいて自らを確立することができなくなり(63)、しまいには、人間は、単なる文化統計に過ぎなくなってしまいます。こうした事態が起こると、人類は、隸属化や操作という新しい危険に直面します。

(60) 教皇レオ十三世回勅『レールム・ノヴァルム(1891年5月15日)』( Rerum Novarum : loc. cit., 135 )参照。
(61) 第二バチカン公会議『現代世界憲章』63。
(62) 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題―——教会と社会の百年をふりかえって(1991年5月1日)』24 ( Centesimus Annus : loc. cit., 821-822 )参照。
(63) 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き(1993年8月6日)』33、46、51( Veritatis splendor. AAS 85 [1993],1160, 1169-1171, 1174-1175 )、同「国連総会での演説(1995年10月3日)」参照。