グローバル化について ― トアル先生との対談:番外編(2)


A+S:自分のことを話題にして恐縮なのですが、私は30代前半… いや、中盤ですかね… 個人的には『マス・グローバリズム世代』と自分たちの世代を見ています。フランスの大学院の講義でジョセフ・ナイの『グローバライザー』(注:グローバル化を推進するもの、こと、事象)という言葉やハンチントンの『文明の衝突』を学んでから、10年ほど私自身も海外5カ国に住み、仕事をしてきました。まあ、さすがに5カ国ってやり過ぎ感ありますが(笑)、でも子供のころからグローバルであることを求められるというか、海外が身近に感じられる世代だったと思うんです。英語教育に力が入ってきた世代でもありますし。今の大学生なんかはそれが一歩進んで、多分『グローバライズド』なグループとそうでない『日本好き』グループに分かれているんですかね?

トアル:まず、『グローバライズド』という言葉の意味をどうとらえるか、そこから考えてみましょう。単純に翻訳すれば「グローバル化した」となりますが、この「グローバル化」globalizationという言葉が実は曲者(くせもの)です。人それぞれが、思い思いの意味で使っているからです。ある人は否定的に、ある人は肯定的に。ちょっと脇道にそれますが、私自身は「グローバル化」という言葉を次のようにとらえるのが正しいと考えています。

“Globalization, a priori, is neither good nor bad. It will be what people make of it.”

「グローバリゼーションは、その性質上、良いものでも、悪いものでもありません。それは人々が作り上げるとおりのものになります。」(教皇ヨハネ・パウロ2世「教皇庁社会科学アカデミーに対するあいさつ」、2001年4月27日)

大学教師ってやつは、口を開けば言葉の意味だとか定義だとかうるさいことを言うものだ・・・なんて思いましたか? たしかにその通りです。学生たちにレポート・論文の書き方を教えるときには、いつもうるさく言っているのです。人が言ったり書いたりしたことを使うときは、必ず引用という形でそれを明らかにせよ、引用するときはカギカッコでくくり、どこからどこまでが引用なのかはっきり分かるようにせよ、出典を必ず示せ、などなど・・・

A+S:それは私にも覚えがあります。卒論を書いていたとき、指導教授にさんざん言われました。

トアル:それはそうと、考えてみれば、長い目で見たとき、人間の歴史自体が「グローバル化」の歴史とも言えるのではないでしょうか。人間の活動は、当初はごく限られた狭い場所・地域の中だけで営まれていました。それがやがて領域を広げていき、ついには今日のように、人・もの・金・情報が国境をやすやすと越えて行き来するようになりました。そうした流れ・プロセスが「グローバル化」と呼ばれるものだと私は考えています。ヨハネ・パウロ2世教皇の言葉にもあるように、「グローバル化」が人間にとって良いものとなるか悪いものとなるかは、結局のところわれわれがそれにどう関わるかによって決まるということですね。

『グローバライズド』という言葉ですが、私はこれを人にあてはめたときは、「自分の生きる(学ぶ、働く、活動する、etc.)場が、日本という国の中だけに限定されていないと考えている人、人と人との関係においても、日本人・外国人という区別にとらわれず、友人や同僚として付き合い一緒に何かをすることを特別のことと思わない人、外の世界・他者に向かって開かれている人」と定義したいと思います。以下、そのつもりで聞いてください。

次に『日本好き』という言葉についても考える必要があると思います。というのも、『グローバライズド』と『日本好き』は両立すると私は考えるからです。『グローバライズド』であるということが、外に向かうだけではなく、内側にも目を向けられるということ、自分の足下をしっかり見据えつつ、外に対して開かれているということ、それが望ましいあり方ではないか。もしもそうであるなら、『グローバライズド』と対照されるのはむしろ『外の世界・他者に対して自分を閉ざす』あるいは『外の世界・他者に対する無関心』といえるでしょう。そして『他者に対する無関心』の状態にあるかぎり、自分自身を客観的に見つめることもできません。また、もしも『グローバライズド』がひたすら外に向かうだけで内側には無関心であることを意味するのであれば、そこには自己を見失う危険が常につきまとうと言うべきでしょう。

ということで、質問をねじ曲げてしまって申し訳ないですが・・・

A+S:いえいえ、そんなことはお気になさらずにどうぞ。

トアル:私はグループ分けを見直し、

1.『外にも内にも開かれている』(望ましいあり方としての『グローバライズド』な)グループ
2.『外ばかり見ている』グループ
3.『内ばかり見ている・内に閉じこもる』グループ

の3つに分類してみたいと思います。

前置きが長くなりましたが、いまから本題に入りましょう。

今の大学生は1から3のどのグループに分かれているのでしょうか? 日本の大学生全体を対象にすることはできませんので、私がこれまで接してきた学生たちに話を限定してお答えしましょう。それと、最初に断っておかなければないことがあります。私は地方の小規模校 ― 学生数は千人に満たない小さな大学で、外国語を専攻する学生たち、それも主としてフランス語を専攻する学生たちを相手に教えてきました。外国語を専攻する学生自体が大学生全体から見ればマイナーな存在であり、しかも英語以外の言語を選ぶとなると、さらにマイナーな存在となるわけです。つまり、二重三重にマイナーな学生たちを相手にしてきた経験による観察結果ですから、当然偏りがあるはずで、一般化はできません。それを承知でお聞き下さい。

今の学生たちがどうかと言えば、私が見る限り、大半の学生は入学当初は1でも2でも3でもなく、むしろもうひとつのグループ、つまりまだ未分化状態にある

4.外のことも内のこともまだよく分かっていないし、そういうことをあまり考えたことなないグループ

に属していると思うのです。そして彼らは、大学での学業や経験を通じて、1から3のグループに分かれていくのです。私が接してきた学生たちについて言えば、多くの学生が1のグループに移っていきますが、2や3のグループに行くものも少数だがいます。

学生たちにほとんど共通して言えるのは、入学してきたばかりの時は、『グローバライズド』といえるほど世界のことに関心や知識があるわけでもないし、日本的な何かに興味や関わりをもっているわけでもなく、日本人としての自覚もとくにない、ということです。いわば《無色透明》あるいは《白紙の状態》で入学してくるわけです。だから、これからそこにどんな絵を描いていくか、それが問題になるわけですね。

A+S:なるほど、白紙に絵を描いていくわけですか・・・

トアル:そうです。ただ単純に、外国語を大学でも勉強したいから入ってきた、それ以上でもそれ以下でもない学生たちが、その後どうなっていくかというと、言葉を学んでいくうちに、だんだんと『グローバライズド』になっていきます。それと平行して、自分が日本人であるということも考えるようになっていく ― またそうなるよう、われわれ教師もしむけていきます。しっかり勉強した学生ほどそうなりますね。とくに在学中に留学した学生は、留学先の国では自分自身が《外国人》なのだということを思い知りますから、否応なく日本人としての自分自身と向き合う経験をし、そうやって『グローバライズド』になっていくわけです。と同時に、日本のことをあまりに知らずにいた自分に愕然とし、自覚を新たにするのです(なにしろ行った先の国で人からよく聞かれるのは日本についてですからね)。そういうことは入学直後から彼らには繰り返し言っているのですが、その時になってみないと本当には分からないのですね。人間、そういうもののようです。いや、これは人ごとではありませんよ。

ここでついでに宣伝しておくと、私の大学では交換留学制度が充実していて、毎年50人以上の交換留学生をアメリカ・ヨーロッパ・中国・台湾・韓国から受け入れています。こちらからも同じくらいの数の日本人学生が、主として2年生の夏から1年間あるいは半年間、交換留学生として世界各地の協定校に留学していきます。フランス語の学生について言えば、2年生の3分の2以上が1年間フランスの協定校に留学します。フランスからもやはり毎年5人前後の学生が交換留学生としてやってきますから、フランスの ― あるいは日本の ― キャンパスで友達になった日本人とフランス人の学生同士が、留学が終わって帰国した後も友達付き合いを続けるケースがよくあります。そうした友達関係は、卒業後も続くことが多いようですね。今は電子メールやソーシャルメディアが普及したおかげで、そうしようと思いさえすればコンタクトをとり続けることが簡単に ― しかも余分なお金をかけずに ― できるのです。

私の大学の学生たちは、そもそもが外国語を学ぼうとして入学してくるわけですから、その多くが留学したいと思っています。フランス語の学生について言えば、いま言ったように、毎年2年生の3分の2以上がフランスに行ってしまいますから、その間、フランス語の授業は少人数もいいところで、わずか数人のクラスになるのが普通です。いっそのこと全員留学してくれれば、授業が無くなって教師も楽ができるのですがね(笑)。ただ、経済的事情などで留学したくともできない学生もいますから、誰もいなくなることはまずありません。それでも彼らは、交換留学でやってくるフランス人学生(あるいは他の国からの留学生)と親しくなる機会はありますし、実際にそうしている学生を知っています。だから、あとは本人次第ですね。

A+S:たしかに昔に比べていまは留学がしやすくなっていますが、3分の2以上の学生さんが留学するって、そうどこにでもはなさそうですね。フランスから学生が毎年来ているというのも、なかなか珍しいことだと思います。学生さんたち、恵まれていますね。

トアル:念のために言っておきますが、留学することあるいは留学生と友達になることだけが問題ではありません。それ以外の出会いや発見を通じて、自己を開いてゆく道を見出すことも可能ですから。ただ、《他者》や《外の世界》を知るのための最もわかりやすい手段は、たとえば外国人と知り合って友達になることであり、外国に行って生活することです。しかも、私の大学の場合、交換留学制度がすでに整っているので、それを利用するのがもっとも自然だし、学生たちも実際に上手に利用しているわけです。そして、学生たちのほとんどは、卒業する頃までに第1のグループに移っていきます。第2のグループにいくケースも稀にありましたが、その後どうしているでしょうか・・・ 気になるところです。

それとは別に、学業に身が入らず留学する気もないという学生も、少数ですがいます。(学生たちの名誉のために言っておきますが、ほとんどの学生は素直でまじめに勉強してくれるのですよ!)そして、この最後にあげた《少数派》のほとんどは、第3のグループに(少なくとも在学中は)なります。しかし、卒業後だいぶたって再会したら大きく変身して第1グループになっていたというケースもありますから、その後のことはわかりません。人は変わることができるということですね。

いまメディアの世界では若者の《内向き志向》が云々されていますが、私は疑問に思っています。私がこれまで出会った学生たちは、決して《内向き》ではありませんでしたし、いまもそうではありません。最初に断ったように、たしかに彼らは「二重三重にマイナーな」存在ではあります。しかし、彼らと同様、《内向き》でない ― 望ましいあり方としての『グローバライズド』な ― 若者たちは、他にもたくさんいるに違いないと思っています。だから私は、いま在学中、留学中の学生たち、そしてこれから大学に入ってくる世代も含め、若者たちに期待しているのです。

A+S:そんな中で外国文化を教える上での課題や面白味ってなんでしょう? お話しいただけませんか。

トアル:外国文化を教えるということですが、第1回講義でも言ったように、「言葉を思想や文化と切り離すことはできない」のです。ですから、《言葉》と《文化》の両方について、というよりもむしろ《言葉》に重点を置きながらお答えしたいと思います。

すでにお話ししたように、私の学生たちは外国語専攻ですから、文化を教える以前に、まず語学 ― フランス語 ― の勉強から始め、語学学習を通じて文化についても学んでいく、ということになります。学生たちにとってフランス語は大学ではじめて学ぶ言語ですから、最初の半年間は、発音・読み方から、男性名詞と女性名詞の違い、動詞の活用など、ひたすら覚えるしかありません。1年目の後半に入って、頭でも理解しなければいけないことが増えてきますが、文法の進み方が速いので、ついて行くのだけで精一杯の状態です。文法についてだけ言えば、英語を中学高校で6年かけて習う分を1年間でやってしまおうというのですから、大変ですね!

A+S:私もそれは経験しました!

トアル:ただ、気をつけねばならないことがあります。言葉を単なる《スキル》として、あるいはコミュニケーションの《手段・道具》として覚えるだけでは、本当の意味で言葉を学ぶことにはならないということです。なぜなら、これも第1回講義で言ったことですが、「人は言葉でもって考え」るからです。

ひとつ試しに、言葉のない世界を想像してみてください。《言葉がないってどういうことなのだろう・・・》 ほら、すでに、言葉でそう考えていますね。言葉のない世界を想像するためには、言葉でもって考え想像するしかないのです。そして、言葉がなかったとしたら、行き着く先はといえば、そこには《思考》はない、そこではもう考えることができなくなる、そこには《虚無》しかない ― つまり《何も無い》のです。

言葉がコミュニケーションの《手段・道具》であることは確かです。言葉とくに外国語を学ぶためには、《スキル》として学ぶ必要もあります。しかし、われわれ人間を《人間》たらしめているものは、われわれが《知性》をもち、《考える》ことができ、自由に《判断》し《選ぶ》能力が与えられているということ、まさにそれなのです。そして、その根本に《言葉》があります。われわれが《ヒト》(単なる動物)ではなく《人間 homo sapiens》(つまり「知恵、知性をもつ、考える」存在)であるのは、われわれが《homo loquens》(つまり「言葉を使う」存在)でもあるからです。

A+S:《人間》の定義って、ほかにも《homo ludens》(「遊ぶ」ひと)とか《homo faber》(「つくる」ひと)とか、ありましたね。

トアル:ええ。でもだいぶ理屈っぽくなってきましたから、この話はここまでにして本題に戻りましょう。

2年目になると、学生たちはかなり難しいテキストを読まされるようになります。たとえば新聞や雑誌の記事、ニュース、告知文や手紙、さらには評論・エッセイ・小説の抜粋などなどです。フランス語で書く訓練もします(これは主にフランス人教師の仕事です)。とくに留学する学生たちは、手紙、履歴書、志望理由書その他、留学に必要な書類を準備しないといけませんから、留学の準備がそのまま語学の訓練につながるのですね。

2年目以降の語学の授業は、異文化との《持続的かつ濃密な接触の場》ともなります。たとえば手紙や書類ひとつみても、書き方・組み立て方が《日本流》とはまったく違うからです。1年の授業でも、そこに書かれている(語られている)フランス語を理解するための文化的な背景や、フランス人と日本人のものの見方・考え方の違いなど、機会あるごとに指摘しますが、2年目以降はそれがもっと本格化します。具体例としては、たとえば第2回講義でとりあげた《croissant》のことを思い出してもらえるとよいでしょう。また、第3回講義の「翻訳をする人へのアドバイス」ですが、8つのポイントひとつひとつが、フランス語と日本語のそれぞれの特徴と違い、言葉を語るときの発想の仕方や順序、習慣や《くせ》、ひいては《知識》と《教養》の重要性など、すべて《言葉の背景》に関わる問題として捉え直すこともできるのです。

実際に、文化的コンテクストを抜きにした語学の授業などあり得ません。そう断言してもいいでしょう。学生たちも、こうして言葉を学びながら、「言葉を思想や文化と切り離すことはできない」ということを、より深く理解するようになっていきます。言葉を通じて文化を学び、文化的理解を深めつつ言葉をさらに鍛えていく、― 外国語を専攻するというのは、実はそういう学び方をすることなのです。そしてこれは、学生たちにとっても、『グローバライズド』な人間に育つために必要不可欠なプロセスといえるでしょう。

さきほどお話ししたように、私の学生たちは、《無色透明》あるいは《白紙の状態》で入学してくるわけです。その彼らに思い切り《絵》を描いてもらいたい、『グローバライズド』な人間に育っていってほしい、その手助けをするのがわれわれ教師の仕事だと思っています。その《絵》が卒業までに完成するわけではありません。一生をかけて描いていくものだとむしろ言うべきでしょう。しかし、まずは描きはじめること、自分はどういう《絵》を描きたいか考え、試みること、― それが学生時代にやっておかなければならない大切な仕事というわけです。われわれ教師は、この学生たちの変化、4年間を通じての成長ぶりを、繰り返し見ていくことになります。これほど楽しいことはありませんね。まさにそこに、言葉と文化を教えることの面白味、語学教師の醍醐味があると言ってよいでしょう。

A+S:なるほど。う~ん、勉強になりました。どうもありがとうございます。また機会を改めて、是非ご登場お願いします。