邦訳:カトリック中央協議会、2006年、50-59ページ参照
26 十九世紀以来、教会の行う愛の活動に対して反論が唱えられてきました。 この反論はその後、とくにマルクス主義によってますます強く主張されました。この主張がいうところによれば、貧しい人は愛ではなく正義を必要としています。愛のわざ――施し――は、実際には、金持ちが正義のために働く義務を逃れる手段であり、彼らの良心の負い目を取り除きます。こうして金持ちは自分の地位を保ち、貧しい人から権利を奪うのです。 必要なのは、個々の愛のわざを通じて現状を維持することではなく、公正な社会秩序を建設することです。このような公正な社会秩序によって、すべての人が世界の富の中から自分の分け前を受け取れば、愛のわざに頼る必要はなくなるからです。たしかにこの議論はある意味で本当ですが、同時にそこには重大な誤りも見られます。国家の基本原則が正義の追求でなければならないのはたしかです。また、公正な社会秩序の目的は、補完性の原理に従って、各人に対する共同体の富の分配を保障することです。これは、国家に関するキリスト教の教えと教会の社会教説によってつねに強調されてきました。歴史的には、共同体の公正な秩序の問題は、十九世紀における社会の産業化によって新たな姿をとるようになりました。近代工業の発生は古い社会構造を崩壊させました。また、賃労働者階級の増加は社会構造を根本的に変化させました。こうして資本と労働の関係が決定的に重要な問題となったのです。 この問題は、それまで知られていなかった形の問題でした。こうして、資本と生産手段が新たな権力の源泉となりました。この権力は少数の人の手に集中し、労働者階級の権利を奪ったので、人々はそれに対して立ち上がらなければなりませんでした。
27 こうした公正な社会構造の問題を解決するには新たな方法が必要なことを教会の指導者が理解するまでにかなりの時間がかかったことを、認めなければなりません。幾人かの先覚者はいました。たとえば、マインツの司教ケッテラー(1877年没)です。 また、多くのグループ、団体、連盟、協会、またとくに十九世紀に創立された新しい修道会が、具体的な必要に対応しました。これらの修道会は、貧困や病気と戦い、必要とされる、よりよい教育を行うために創立されました。教皇の教導職は、1891年に、レオ十三世の回勅『レールム・ノヴァールム』によって初めてこの分野についての発言を行いました。 続いて1931年にピオ十一世は回勅『クアドラジェジモ・アンノ』を発布しました。1961年に福者ヨハネ二十三世は回勅「マーテル・エト・マジストラ』を発布しました。パウロ六世は回勅『ポプロールム・プログレッシオ』(1967年)と使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』(1971年)で、当時とくにラテンアメリカで深刻化していた社会問題にはっきりと言及しました。わたしの偉大な前任者であるヨハネ・パウロ二世は、三つの社会回勅をわたしたちに残しました。すなわち、「働くことについて』(1981年)、『真の開発とは――人間不在の開発から人間尊重の発展へ』(1987年)、そして最後に『新しい課題――教会と社会の百年をふりかえって』(1991年)です。このように、カトリック教会の社会教説は、新たな状況と問題に直面しながら、少しずつ発展してきましたが、今やそれは、2004年に教皇庁正義と平和評議会が刊行した『教会の社会教説綱要』によって包括的な形で示されています。マルクス主義は、世界革命とその前段階を社会問題のための万能薬と考えました。マルクス主義は、革命が行われ、その結果として生産手段が国有化されれば、ただちに万事がよい方向に変わると主張しました。しかしこのような幻想は消え去りました。経済がますますグローバル化して、複雑となった現代の状況の中で、教会の社会教説は、問題の解決のための基本的な指針となっています。この指針は教会の枠を超えても有効なものです。継続的な発展を前にして、わたしたちはこの教会の指針を、人類とわたしたちの住む世界のことを真剣に考えるすべての人々との対話において示していかなければなりません。
28 必要とされる正義への取り組みと、愛の奉仕の関係をより正確に示すために、次の二つの根本的な状況を考察しなければなりません。
a 社会と国家を公正なしかたで秩序づけることは、政治がなすべき中心的な務めです。かつてアウグスチヌスが述べたとおり、正義に従って統治されない国家は大盗賊団にすぎません(Remota itaque iustitia quid sunt regna nisi magna latrocinia ?)18。キリスト教にとって根本的なのは、皇帝に属するものと神に属するものの区別です(マタイ2・2参照)。すなわち、教会と国家の区別、あるいは、第二バチカン公会議が述べたように、地上の諸現実の自律です19。国家は宗教を強制してはなりません。また、国家は信教の自由と、さまざまな宗教の信者の平和的共存を保障しなければなりません。キリスト教信仰の社会的な表現である教会は、自主権を有するとともに、自らの信仰に基づいて共同体を形成します。 国家はこの共同体を認めなければなりません。教会と国家は区別されますが、にもかかわらず、両者はつねに相互に関係しています。
18 聖アウグスチヌス『神の国』(S. Augustinus, De Civitate Dei, IV, 4: CCL 47, 102)。
19 第二バチカン公会議『現代世界憲章』36(Gaudium et spes)参照。
正義はすべての政治の目的であると同時に、その本質的な基準でもあります。政治は、公共の規則を制定するための技術にすぎないものではありません。政治の起源と目的は正義にあります。それゆえ政治は倫理的な性格をもっています。国家は、どうすれば正義を今ここで実現することができるかという問いに直面しなければなりません。しかし、この問いはさらに根源的な問いを前提します。すなわち、正義とは何かという問いです。これは実践理性の問題です。しかし、理性を正しく働かせるために、わたしたちはたえず理性を浄めなければなりません。理性は、権力と特定の利益の誘惑によって、倫理的な盲目に陥る危険につねにさらされているからです。
ここで政治と信仰が出会います。信仰が、その本性上、生きた神との出会いであることは間違いありません。この出会いは、理性の領域を超えた新しい地平を開きます。信仰はまた、理性そのものを浄める力でもあります。信仰は、神の視点から考えることにより、理性をその盲点から解放し、そこから理性がいっそう完全なものとなるのを助けます。信仰によって、理性はいっそう効果的なしかたで働き、また、その対象をいっそうはっきりと見ることができるようになります。これがカトリック教会の社会教説の目指すところです。カトリック教会の社会教説は、教会の権力を国家に及ぼすことを決して意図していません。ましてそれは、同じ信仰をもたない人に、信仰に基づく考え方や生き方を強制しようとするものでもありません。カトリック教会の社会教説は、ただ、理性を浄めるための助けとなり、今ここで正義を認め、実現するための役に立つことを望むにすぎません。
教会の社会教説の議論は、理性と自然法に基づいて、 つまり、すべての人間の本性に従ったことがらに基づいて行われます。教会の社会教説は、教会の務めが、この教説を政治的な意味で実行することではないことをわきまえています。 むしろ教会が望むのは、政治生活における良心の教育を助けることです。また、正義が本来何を求めるかをいっそうよく見極め、たとえ個人的な利害状況との葛藤を招いても、進んで正義の要求するところに従って行動するよう促すことです。各人が当然与えられるべきものを与えられるような、公正な社会と国家の秩序を築くことは、あらゆる世代の人があらためて取り組むべき根本的な課題です。これは政治的な課題であって、教会が直接果たすべき務めではありません。しかしながら、それは人間がなすべきもっとも重要な課題でもあります。ですから教会には、理性の浄めと倫理教育を通じて、正義の要求の理解とその政治的実現のために、特別なしかたで貢献する義務があるのです。
教会は、できるかぎり公正な社会を実現するための政治闘争を自ら行うことはできませんし、行うべきでもありません。教会が国家に取って代わることはできませんし、取って代わるべきでもありません。しかしながら、同時に教会は、正義のための戦いを傍観していることはできませんし、傍観するべきでもありません。教会は理性に基づく議論を行い、また、霊的な力を呼び覚まさなければなりません。こうした霊的な力なしに正義が勝利し、栄えることはできません。 なぜなら、正義は犠牲を要求するからです。 公正な社会を実現すべきなのは政治であって、教会ではありません。しかし、人々の心の目を開き、善が求めることを実現したいと望ませることを通じて正義を促進することに、教会は心から関心を寄せるのです。
b 愛――愛のわざ――は、もっとも公正な社会においてであっても、つねに必要とされます。いかなる公正な国家秩序も、愛の奉仕の必要をなくすことはできません。愛を排除しようと望む者は必ず、人間そのものを排除することになります。慰めと助けを必要とする苦しみはつねに存在し続けます。 孤独もつねに存在し続けます。物資が欠乏して、具体的な隣人愛による援助が不可欠な状況もつねに存在し続けます20。 あらゆるものを自らが所有しながら、あらゆるものを提供しようと望む国家は、最終的に単なる官僚国家となります。この国家は、苦しんでいる人 ―― 一人ひとりの人 ―― が必要とするものそのもの、すなわち、人からの親切な思いやりを与えることができません。 わたしたちが必要とするのは、すべてのものを規制し、管理する国家ではありません。補完性の原理に従って、さまざまな社会組織が行う取り組みを寛大に認め、かつ支えながら、こうした自発的な努力を、困っている人と緊密に結びつけるような国家を、わたしたちは必要としています。教会もそうした生きた組織の一つです。教会はキリストの霊によって燃え上がる愛の力で生きているからです。 この愛は人々に物質的な援助を行うだけでなく、人々の魂を力づけ、いやします。こうした力づけといやしは、しばしば物質的な援助よりも必要とされていることがあります。実際、公正な社会構造は愛のわざを不要にするという主張の下には、唯物論的な人間観が隠されています。それは、人間が「パンだけで」(マタイ4・4。 申命記8・3参照) 生きることができるという誤った思想です。 この思想は、人間をおとしめ、ついには、人間を人間たらしめるものを否認することになるのです。
20 教皇庁司教省『司教の司牧的奉仕職指針(2004年2月22日)』(Apostolorum Successores : Città del Vaticano 2004, 2a, 209)参照。
29 こうしてわたしたちは、国家や社会の公正な秩序を築くための努力と、組織的に行われる愛の活動との関係を、 教会生活の中で、もっと正確に述べることができます。 すでに示したとおり、公正な社会構造を作ることは、教会が直接果たすべき務めではなく、政治の世界に属することがらです。 政治は、理性を自律的に行使すべき領域です。 ここでの教会の使命は間接的なしかたで果たされます。すなわち、教会は理性を浄め、道徳的な力を目覚めさせるために役立つことを求められています。この道徳的な力なしには、公正な社会構造を作ることも、それらを長期的に有効なものとすることもできないからです。
これに対して、直接に社会の公正な秩序を築くことを、自己固有の使命としているのは、信徒です。信徒は国家の市民として、個人の能力に応じて公共生活に参加するよう求められています。ですから信徒は、「組織的にまた制度的に共通善を促進することを目的としている経済、社会、法律、行政、文化上の多様な分野21」への参加を放棄することはできません。それゆえ信徒の使命は、社会生活の正当な自律性を尊重し、それぞれの能力に応じて他の市民と協力し、自らの責任を果たすことを通じて、社会生活を正しいしかたで形づくることです22。教会による愛のわざの特定の表現を国家の活動と混同することはできないにせよ、信徒の生活全体を―――したがって「社会愛23」として行われる信徒の政治活動を動かす力とならなければならないのが愛であることは変わりません。
21 教皇ヨハネ・パウロ二世シノドス後の使徒的勧告『信徒の召命と使命(1988年12月30日)』42(Christifideles laici : AAS 81 [1989], 472)。
22 教皇庁教理省『教理に関する覚え書き――カトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について(2002年11月24日)』(Nota dottrinale circa alcune questioni riguardanti l'impegno e il comportamento dei cattolici nella vita politica : L'Osservatore Romano, 17 Gennaio 2003, p. 6)参照。
23 『カトリック教会のカテキズム』1939。
他方、教会の愛のわざのための組織も、教会固有の活動(opus proprium)です。こうした活動において、教会は他の組織の協力者として働くのではなく、主体的に直接の責任において活動し、教会の性格に即したことを行います。教会が、信者の組織的活動として愛のわざを行うことを免除されることはありえません。また、個々のキリスト信者が隣人愛を実践する必要がないような状況もありえません。なぜなら、人はつねに、正義だけでなく愛を必要としていますし、これからも必要とし続けるからです。