ああ、わたしのイエスさま、聖人になるのは何とやさしいことでしょう、ほんの少しの善意さえあればよいのですから。そして、イエスさまが霊魂の内に、このわずかばかりの善意を見つけ出されるなら、すぐさま御自分をその霊魂に与えてくださるのです。どんなものも、イエスさまを止めることはできません、過ちも、失敗も、絶対に。イエスさまは急いでその霊魂をお助けになりますから、その霊魂は、もしもこうした神の恵みに忠実であるなら、すぐに、被造物がこの世で達することができる最高の聖性にまで至ることができるでしょう。神はいとも寛大な御方ですから、どんな人に対してもその恵みを拒まれることはありません。わたしたちが願う以上のものさえ与えてくださるのです。一番の近道、それは聖霊からの霊感に忠実であることです。
この美しい文章は、ファウスティナ修道女1の『日記』から引用したもので、単純で簡潔な文章を通じて、聖性を求めるすべての人にとって ― もっとわかりやすく言うなら、神の愛にできる限り完全に応えたいと望んでいるすべての人にとって ― 実に重要なメッセージを伝えています。
そうした人々にとって大きな問題となること、ときとして大きな不安となることは、どのようしたら聖性へと至ることができるのかを知ることです。
読者であるあなたは、この問題がひどく気になったことは、今まで一度もなかったかも知れません。たぶんあなたは、可能な限りの愛で神を愛したいなどという強い願いを心に抱いたことは、今まで一度もなかったかも知れません。でしたらどうぞ、聖霊に願い求めてください、そうした願いを心に抱かせてくださいと、そして、心が安まるときが決してありませんようにとさえ願ってみてください。そのときあなたは幸いな人となるでしょう、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5・6)2 。
このように満ち溢れる愛を熱望する人々にとって、道を ― とりわけ近道を ― 教えてくれるような情報は、なんであれ、実に貴重なものとなるでしょう。ほとんど誰も気づいていませんが、聖なる霊魂がより速く、より一層聖なる者となれるようにすることは、罪人が回心できるようにすることと同じくらい大切なことだと、わたしには思えるのです。どちらも教会にとって同じくらい益となりますし、世界は聖人たちの祈りによって救われるでしょうから。
ですからわたしたちは、今日のキリスト者たちに ― たとえ彼ら全員がその言葉を理解できるわけではないとしても ― 聖人たちの最善のメッセージを伝えることによって、彼らが完全な愛へと向かってより早く進めるようにすることは、とても大切なことだと思うのです。
この道を進むための鍵となることは、たぶん、わたしたちの努力を何に集中すれば良いかを知ることでしょう。それは必ずしも明らかではありませんし、わたしたちが最初に思い描くこととも限りません。
ファウスティナ修道女は、最初に引用した文章においても、また『日記』の別の箇所で書いていることにおいても、わたしたちに示唆を与えてくれます。それは彼女が経験したことの実りであり、耳を傾けるだけの価値があることす。一番の近道、それは聖霊からの霊感に忠実であることです。だからファウスティナ修道女は、わたしたちの努力を、それが実を結ばないかも知れないようなところにあちこち分散させるのではなく、一点に集中させるよう勧めるのです。その一点とは、聖霊からの霊感を見極め、受け入れ、実行するということです。まさにそれこそが、何にも増して「有効な」方法と言えるでしょう。
その理由をこれから説明し、そしてそれが具体的にはどういうことを意味しているか、述べてみたいと思います。
注
1. ファウスティナ・コヴァルスカ修道女は、1905年に生まれ、1938年10月5日に死去、ヨハネ・パウロ2世教皇によって1993年の復活節第2主日に列聖された。このポーランドの修道女は、神のいつくしみをもっと世界に知らせるようにとの使命をイエスから受け、とくにその手段として「いつくしみのキリスト」のイコンを描かせた。
2. 聖書で言われる「義(正義)」とは、わたしたちが普通に考えているような意味ではなく、神を愛し隣人を愛することによって、神の御心に完全に「応えようとする」意志をもつ人のあり方、つまり聖性を目指している人のあり方を言います。