「人という存在は自由への強い渇望も示しています。なぜなら人間の最も基本的な渇望は幸福への渇望だからです。しかも人間は、愛がなければ幸福はなく、自由がなければ愛はないと感じ取っているのです。それはまさにそのとおりなのです。人間は愛によって、愛するために造られたので、愛し愛されることなしには幸福を手に入れることはできません。(・・・)愛だけが人を満たすことができるのは確かですが、自由がなければ愛はありません。(・・・)愛を開花させるこの自由に、どうすれば到達することができるのでしょう・・・」(本文より)ほんとうの自由とはどんなものか、どうすれば到達することができるのか、この本を通じて考えてみませんか。
主の霊のおられるところに自由があります。ー 聖パウロ(2コリント3・17)わたしたちは、聖母の御手(みて)と御心(みこころ)を通して、わたしたちの意志、わたしたちの理性、わたしたちの知性、わたしたちの存在すべてを神に捧げます。そのときわたしたちの精神は、あの貴重な自由を ― 不安な緊張とも、悲哀とも、鬱状態とも、気苦労とも、心の狭さとも無縁の、あの自由を ― 手に入れるのです。わたしたちは、すべてを委ねつつ、自分自身から自由になって、無限なるお方へと向かって行くのです。
ー イヴォンヌ=エメ・ド・マレストロワ
この本では、キリスト教的な生き方の根本的なテーマである内的自由について取り上げたいと思います。目的は単純です。一人ひとりのキリスト者にとって、大切なことは、外的にはどれほど不遇な状況にあったとしても、心の中に自由という空間をしっかりと保つことだと、わたしには思えるのです。なぜなら自由は、神に由来し神が保証してくださるものなので、誰も奪い取ることができないからです。そのことを知らなければ、わたしたちはいつまでたっても窮屈な生活を送るだけで、ほんとうの幸福を味わうことは決してできないでしょう。反対に、もしもわたしたちが心の中にあの自由という空間を確保することができたとしたら、たとえ苦しいことがいろいろとあったとしても、何ものもわたしたちを押しつぶすことも押し殺すこともできないでしょう。
わたしたちが身につけ育てて行こうとする基本的なことがらは、単純ではありますが、長い道のりをたどらねばならないことでもあります。なぜなら、人が内的自由を獲得して行くのは、信仰・希望・愛がその人のうちに強められて行く度合いにまさに応じているからです。わたしたちは、伝統的に「対神徳」と呼ばれているもののダイナミズムがどれほど霊的生活の中心をなすものであるかを示すと共に、わたしたちの内的成長において希望の徳が鍵となる役割を果たすことも明らかにするつもりです。この希望の徳は、心の貧しさと結びついたとき、はじめてその力をほんとうに発揮することができるのです。つまりこの本は、真福八端の最初の言葉、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)の解説ということもできるでしょう。
内的平和、祈りの生活、聖霊の導きといった、これまでに刊行した本[1]でも論じたいくつかのテーマを改めて取り上げながら、問題を掘り下げて行きたいと考えています。
第三千年紀のはじめにあたり[2]、聖霊の働きによるあの内的刷新という素晴らしい恵みを素直に受け入れ、神の子に与えられる輝かしい自由に至ることを望んでいる人々にとって、小著が助けとなることを願っています。
注
[1] Recherche la paix et poursuis-la ; Du temps pour Dieu ; À l'école de l'Esprit Saint. ― [訳注]巻末の「著者紹介」参照。
[2][訳注]原著は2002年に出版されました。