どうすれば豊かな人生をまっとうできるのか? どうすれば幸福になれるのか? どうすればまったき男性、まったき女性になれるのか? これらは昔から問われてきた問題ですが、とくに今日のように、もはや指標となるものがなくなってしまった世界、できあいの解決策など誰も受け入れようとせず、一人ひとりがその答えを探し求めているように見える世界では、なおさら深刻な問題となっています。実際のところ、現代人の多くは、外から押しつけられた規範に対しては拒否反応を示し、今ある生活の中から最善の解決策を引き出そうとしています。自分自身が思い描く幸福のイメージにあわせて、自分流の幸福を造り上げようとしているのです。そのイメージは、教育や文化、各自の経験を通じてつくられたものですが、周囲の文化やメディアの影響を(自覚しているかどうかはともかく)強く受けてもいます。現代人がそのようにして造り上げようとしているはかない幸福は、病気、挫折、別離といった人生にはつきものの試練に直面したとき、たいていの場合、もろくも崩れ去ってしまいます。人生において、若き日に思い描いた約束がすべてかなえられるわけではありません。
けれどもわたしは、人生は素晴らしい冒険だと思っています。ときには苦しみや失望という重荷を負わねばならないこともありますが、そのときこそわたしたちは、人間性において、自由において、内的平和において成長するための手段、わたしたちの内に備わっている愛の力、喜びの力を、思う存分発揮する手段を見出すことができるのです。
ただし、そのためにはひとつ条件があります。自分の生活を思い通りにコントロールするのをあきらめること、自分の幸福を自分自身でプログラムしようとは思わぬこと、良いことがあろうと困難があろうと、日々送られてくる呼びかけを聴き分け、受け入れることを学びながら、人生の、この命の導きに身を委ねて生きてゆくということです。
今わたしは「呼びかけ」という言葉を使いましたが、この言葉はこの本全体のキーワードとなるでしょう。この単純ではありますが深い意味をもつ言葉は、人間学的な面においても霊的な面においても、まさに基本となる考えを表しているとわたしには思えるのです。人は、自分で練り上げた計画を実行するだけでは、豊かな人生を生きることはできません。計画をつくり、それを成し遂げるために全力を尽くすのは当然で、また必要でさえあります。しかし、わたしが思うに、それだけでは十分ではなく、計画が失敗したときにはかえってひどい幻滅へと人を導きかねません。計画を練り上げ実行するときには、もうひとつ別の、もっと決定的で豊かな実りをもたらしてくれる態度がどうしても必要です。わたしたちの人生を通じて絶えず送られてくる呼びかけ、ひそやかで神秘的な招きに耳を傾け、計画を作り上げることよりも、呼びかけを聴き取り、それに柔軟に応えることを優先するという態度が必要なのです。わたしは確信しています、わたしたちが人間として豊かに生きることができるかどうかは、命が日々わたしたちに送られてくる呼びかけに、どれだけ気づき、応えようとするかにかかっていると。変わりなさい、大きくなりなさい、成熟した人になりなさい、心と視野を広げなさい、狭い心や思いから抜け出し、もっと広い心で、信頼をもって現実を受け入れなさいという呼びかけが、わたしたちに送られているのです。
こうした呼びかけは、出来事を通じて、わたしたちが接する人たちの模範を通じて、わたしたちの心に生じる願望を通じて、身近な人から来る頼みを通じて、聖書に触れることを通じて、その他さまざまな形を通じて、わたしたちに届けられます。それらの呼びかけの源は神のうちにあります、わたしたちに命を与えてくださった神、神の子であるわたしたち一人ひとりを絶えず見守り、愛情をもってわたしたちの日々の歩みを導き、さりげなく、感知できないことが多くとも、確実な仕方で常にわたしたちのために取り計らってくださる神にあるのです。この神の現存と働きは、残念なことに、多くの人たちには隠されたままになっていますが、神に耳を傾け、その声に応えようとしている人々には示されるのです。
神は死者の神ではなく、生者の神です。神はさまざまな仕方で、神秘的にではありますが実際に、たえずわたしたちに働きかけ、わたしたちが予見も想像もできないほどの価値を、美を、豊かさを、わたしたち一人ひとりの命に与えてくださっているのです。そのことをパウロは次のように示唆しています。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(エフェソ 3・20-21)
神からの働きかけに応えようとせず、自分が造り上げた、あまりに狭く当てにならない世界にひたすら閉じこもるのは、何と残念なことでしょう。
人生を歩む中でわたしたちに送られてくる多種多様な呼びかけの背後には、実は神からのただ一つの呼びかけがあるのです。その呼びかけは、キリストの神秘のうちに、最も完全で輝かしい形で示されているのです。その呼びかけを感じ取り、それに応えることによって、人は、人間としての完成へと、真の幸福 ― 次の世の栄光のうちに実現される幸福 ― へと至る恵みの道を見出すのです。それが、パウロがエフェソの信徒への手紙で断言しているように、キリストにおける神の呼びかけがわたしたちに示してくれる希望なのです。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の呼びかけ1によってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エフェソ 1・17-19)
以下に続くページで、わたしたちは、この考えの重要性と豊かさとを明らかにしたあと、呼びかけを感じ取るためのいくつかの特権的な場 ― 生活の中で遭遇する出来事、神の言葉(これについては長い章を当てることにしています)、聖霊がわたしたちの心の内に生じさせる願望 ― について検討することにします。
わたしたちはまた、神からの呼びかけは、すべて命への呼びかけであるということを強調することになります。わたしたちの最初の召し出しは生きることであり、そして、神からくる呼びかけは、まさにわたしたちに、より豊かにより美しく生きるようにと促すもの、より深い信頼をもって、肉体的にも精神的にも、感情においても知性においても、人間としての生をあるがままに引き受けるようにと促すものに他ならないはずです。
「はじめに」を締めくくるにあたって、本書を読んでくださる方々に、ひとつ確認しておきたいことがあります。わたしは「呼びかけ」という概念を、キリスト教的な文脈において、キリスト教的な意味をもつ言葉として使って行きます。なぜなら、聖書、とくに福音書は、人間の条件について語られたきた言葉の中でも、最も深く最も明快な言葉であると、わたしは確信しているからです。しかし、これから語って行くことは、どんな人にとっても、意味のあるものとなるでしょう。実際に、呼びかけという概念は、人間の条件に内在する本質的な意味をもつものであることが、この問題を多少なりとも深く考えようとするなら、すぐに明らかになってくることだからです。最後に、責任、自由、願望などの言葉について、いくつかの例をあげておきたいと思います。
この呼びかけという概念は、「責任」responsabilité(répondre de…)2という概念が「呼びかけ」や「要請」の存在を前提として含んでいるように、倫理的な面でも重要な意味を持っています。自分の行為に責任を持つということは、単に他者に対して何らかの結果を引き受ける・保証するという行為であるだけでなく、その行為以前に、わたしたちに対して何らのかことが(善いことか悪いことかはともかく)要請されていることも、はっきりと示しているのです。同様に、「自由」という概念に実質的な意味を与えるためには、何らかの形での呼びかけがいずれにせよ必要となります。もしも自由を、まったくの恣意的なもの、つまり取るに足らないものとしたくないのなら、人間の自由、選択・決断する能力は、それを超える何かによって求められているものでなければなりません。同じように基本的なこととして言えるのは、「願望」は、それをただ心に生じてくるものとか衝動の産物などと理解するのではないとしたら、それは人間の本性の奥深くにある、呼びかけのようにものとして捉えるべきだということです。人間の心に宿るさまざまな願望の、ときとして相容れないこともある多様性の奥底には、ただ一つの願望(満ち足りることへの、幸福への願望)があるのです。もしもその願望を満たしてやろうとするなら、その願望を、欲求とか衝動といった言葉で片付けるのではなく、真摯なもの、まったく人間的なものと理解するなら、人間自身をはるかに超えたところから来る呼びかけの跡をそこに見るべきでしょう。
もっと人間らしくなるようにとの呼びかけを感じ取ることなしに、人間とはいかなる存在かを考えることはできません。その呼びかけは、どこから来るのでしょう? どんなところにその源があるのでしょう? わたし自身はキリスト教的な答えの枠組みの中に身をおいていますが、以下の考察は、すべての善意の人に関心をもっていただけるだろうと思っています。
注
1. [訳注]新共同訳でもフランシスコ会訳聖書でも「招き」と訳されているが、本書のキーワードであるappel「呼びかけ」が使われている。今後も同様のケースでは、キーワードを重視して訳すことにする。
2. [訳注]「責任、責任をもつ」のフランス語原語はresponsabilité(責任・責務)、répondre de…(・・・に責任をもつ、・・・を保証する)だが、そもそも動詞répondre(答える・応える)と名詞réponse(答え、応答、返事)には、誰かからの呼びかけや要請に対する応答という意味を含んでいる。