Alexandre Hardy, comédien

1600年アンジェの古文書が語ること

戸口 民也



 ここで取り上げるのは、私が1996年夏にアンジェ Angers 市に滞在した折に、同市のメーヌ・エ・ロワール県立古文書館 Archives départementales de Maine et Loire で発見した1600年3月22日の文書である。(同じ時に発見したもうひとつの文書 ― 1606年2月9日の文書―についても後でふれるつもりである。)この文書には、マチュー・ル・フェーヴル(ラ・ポルト)Mathieu Le Febvre (La Porte) やフルリー・ジャコー(モンフルーリー)Fleury Jacquault (Montfleury) とともに、アレクサンドル・アルディAlexandre Hardyの名前が記されており、本人の署名まである。それまで発見されたアルディに関する直接的な資料は、私が知る限りでは1611年8月9日付の文書1)が最も古いものだったが、この文書はそれよりも10年以上前の記録となるわけである。また、この文書の発見によって、1600年前後のアルディについてこれまでほぼ定説のようにみなされていたことが覆されることにもなるのである。どういうことか、具体的に見ることにしよう。

 アルディの生涯や作品についてのまとまった研究は、現在までのところ事実上ウジェーヌ・リガル Eugène Rigal とデイエルコーフ・オルスボエル夫人 S. W. Deierkauf-Holsboer の研究2)にとどまるといってよい。ただし、時代的にはちょうどこの両者の中間にあって、当時の演劇関係の文書資料発見に功績があったフランセン J. Fransen の仕事3)も忘れてはならないだろう。文書館に所蔵されている文書記録を体系的に調べ、確実な「証拠」に基づき研究を進めて行こうとする姿勢に関しては、デイエルコーフ・オルスボエル夫人の研究はフランセンの仕事を引き継ぐ形で発展したものと見てよいからである。

 リガルは17世紀に刊行されたさまざまな本や印刷資料に散見される証言をもとに、アルディの生涯をたどろうとした。今リガルの研究を読みなおしてみると、19世紀末の時点で手に入る限りの資料を調べ、証言の信頼性についても十分に吟味しようとしていたことがわかる。しかし、彼自身が嘆いているように4)、直接的な証拠となる文書資料が手に入らないため、アルディの生涯のほとんどは間接的な証言による推測にとどまるしかなかった。これに対してデイエルコーフ・オルスボエル夫人の研究は、フランセンや夫人自身が発見したものも含むいくつかの文書資料を手がかりにしながらリガルを補い、あるいは修正したもので、アルディ研究の基本文献となっている。しかし、彼女の研究によっても、発見された資料そのものの数が極めて限られているため、アルディについて正確に知りうることが大幅に増えたわけではない。

 それでは問題の文書はどのようなものだろうか。1600年3月22日付けの劇団結成契約文書 acte d'association で、すでに述べたように、アンジェ市のメーヌ・エ・ロワール県立古文書館に所蔵されている。公証人ギヨーム・ギヨ Guillaume Guillot 関係の文書として分類されており、分類番号は 5E5,91 である5)。この契約文書に名前を連ねている俳優達はマチュー・ル・フェーヴル(ラ・ポルト)Mathieu Le Febvre (La Porte) 、ジャック・ロビノー(ラ・ブルトニエール)Jacques Robineau (La Bretonnière) 、フルリー・ジャコー(モンフルーリー)Fleury Jacquault 6) (Montfleury)、クロード・ユッソン(ロングヴァル)Calude Husson (Longueval) 、ダニエル・デュゲ(ラ・シェネー)Daniel Dugué (La Chesnaie) 、それにアレクサンドル・アルディ Alexandre Hardy で、彼らは全員「国王の俳優」 comédiens du roi と称している。文書は次のように始まっている。

Le vingt deuxieme Jour de Mars l'an mil six cent Apres Midy

Furent presens et personnellement establyts Chacuns de Mathieu Lefebvre Sieur de La porte Jacques Robineau Sieur de la Bretonniere Fleury Jacob Sieur de Montfleury Claude Husson Sieur de Longueval Danyel Du Gué Sieur de La Chesnaie Et Alexandre Hardy tous commediens du roi et estant de present en ceste ville d'Angers lesquelz de leur bon gré et vollonté _______ Confessent avoir faict _______ entre eulx l'association et assemblée …(以下略)

そして、文書の最後には上に記された俳優たち全員の署名がある。

 従来の研究では、アレクサンドル・アルディはこの時期にはヴァルラン・ル・コントValleran le Conteと行動を共にしていたと考えられていた。たとえばリガルはさまざまな状況証拠を組み合わせながら、アルディは16世紀の終わりからヴァルランの座付き作者になっていたと推測している7)

 デイエルコーフ・オルスボエルも、基本的にはリガルの判断を引き継いでいる。ただし、彼女の場合には、リガルやその後の研究者たちの考証(依然としてほとんどすべて「状況証拠」に依存するものではあった)だけでなく、文書館の記録をも手がかりに、ヴァルランがパリにやってきた時期をはっきり1597年末から1598年の初めにかけてと確定し8)、リガルら先行研究を踏まえながら間接的な証言を吟味しつつ9)、アルディも彼と一緒にパリにやって来たに違いないと断定している10)

 デイエルコーフ・オルスボエル夫人が主張するように、16世紀末から17世紀初めにかけての時期、ヴァルラン・ル・コントが最も有力な俳優であり座長だったと考えるのは正しいだろう11)。ところで、座付き作者をかかえることは非力な劇団になしうることではなかったはずである。とすれば、アルディが作品を供給した可能性がある劇団は当然のことながら限られてくる。しかもアルディは、1611年8月9日の文書12)から、実際にヴァルラン一座に戯曲を提供したことが明らかである。つまり、物的証拠(文書資料)と状況証拠(同時代あるいは後世の証言や記録)を総合すると、アルディをヴァルランに結びつけるのがもっとも妥当に思えてくるのだ。

 確かに、アルディがヴァルランの劇団にいたという確証を示す資料は、1611年8月9日の文書およびそれに続く1611年9月2日の文書13)が最も古いものである。それ以前は、ヴァルランにかかわるどの文書にも、アルディの名前は言及されていない。ただ、座付き作者は劇団契約には加わらないのだろうという推測から、名前がないことが作者の不在を証明するとは限らないと考え、アルディも実際にはヴァルランとともにいたに違いないという結論をデイエルコーフ・オルスボエル夫人は引き出した。リガルの推論を批判しつつも、基本的にはリガルの推測をほぼそのまま受け継いでいるというわけだ。私自身も、デイエルコーフ・オルスボエル夫人の意見に従い、ヴァルランが1598年にパリで上演したときには、アルディも座付き作者として加わっていたに違いないと考えていた14)

 その意味で、1600年という時点でのアルディの存在を確証する資料が見つかったのは画期的なことである。では、この文書から明らかになってくることは何か? 箇条書き風に列挙してみよう。

1、アレクサンドル・アルディは、リガルやデイエルコーフ・オルスボエルの推測に反し、この時期にヴァルラン・ル・コントではなくラ・ポルト(マチュー・ル・フェーヴル)の一座に属していたことが、この文書によって始めて確認された。ラ・ポルトは当時の俳優としてはかなり有名な存在だったようだが、ヴァルランとくらべると資料はあまり発見されていない。しかし、100年前のリガルの時代にはヴァルランの資料もほとんど発見されていなかった。アンジェでラ・ポルトとアルディの資料が発見されたということは、彼らに関する文書が他にもどこかの文書館に眠っている可能性があるということでもある。地方の、そしてパリの公証人の記録を調べなおす必要があるのではないか。

2、アンジェでアルディを含む俳優たちが契約を結んだ1600年3月22日という時点では、ヴァルランはパリにいたはずである15)。だから、少なくともこの時期については、アルディはヴァルランと行動をともにしていたわけではない。ただし、その時以前について、またその時から1611年16)までについてはどうかとなると、なんとも判断しようがない。

3、アンジェの劇団の座長はマチュー・ル・フェーヴル(ラ・ポルト)である。ところで、ラ・ポルトとヴァルランが関わりを持つことがはっきり確認できるのは、私が知る限り、もっとも古いものでも1607年10月24日の文書17)でしかない。ただし、他の俳優たちの名前が記されていないので,この文書だけでは、誰と誰が劇団に加わっていたかを特定することはできない。アルディがこのときラ・ポルトあるいはヴァルランのどちらかの劇団に加わっていたか否かは不明である。

4、ラ・ポルト以外の俳優たちについては、クロード・ユッソン(ロングヴァル)を除いては、少なくとも私が確認している文書資料による限り、ヴァルランとの関わりは薄い人物たちばかりである。

5、この文書に名前を連ねている俳優たちはすべて「国王の俳優」comédiens du roi と記されている。ラ・ポルトとその劇団の俳優たちも、ヴァルランの一座と同様に、comédiens du roi と名乗っていたわけである。なお、1600年にラ・ポルトの劇団に加わっていたジャック・ロビノー Jacques Robineau、フルリー・ジャコー Fleury Jacquault、ダニエル・デュゲ Daniel Dugué の3人が1603年にやはりアンジェで劇団契約を結んだ文書が残されているが、このときも俳優たちは「国王の俳優」と称している18)。また、1606年にもフルリー・ジャコーがロベール・ゲラン Robert Guérin、ニコラ・ガトー Nicolas Gasteau などとアンジェで劇団契約を結んでいる19)。彼らもまた「国王の俳優」と名乗っていた。つまり、「国王の俳優」という称号は独占排他的なものでは全くなく、幾人かの特定の俳優―ヴァルランやラ・ポルトなど―および彼らの劇団に加わった俳優たちがそれぞれ自由に用いた肩書きと見てよいだろう。

6、アンジェの文書3点について補足すると、この3つの契約書すべてに登場するフルリー・ジャコーはコロンブ・ヴェニエール Colombe Vénière と結婚するが(コロンブは1603年と1606年の文書にフルリー・ジャコーの妻として名前が記され、署名もしている)、彼女はラ・ポルトの妻マリー・ヴェニエールMarie Vénière の姉妹にあたる。ただし、フルリー・ジャコーがラ・ポルトの劇団に加わっていたことを示す文書は、私が知る限り1600年のこの文書のみである。なお、コロンブは後にフルリー・ジャコーと別れ、エチエンヌ・ド・リュファン Estienne de Ruffin と一緒になる20)

7、アルディは座付き作者ではなく、俳優 comédien の一人として名前が記されている。しかし、既に何度も述べているように、1600年以前も1600年以後も,ヴァルランに関する文書はかなりの数が確認されているのに、アルディの名前は1611年まで文書記録にはあらわれない。これはどういうことか? アルディがヴァルランの一座に加わったのも1611年が初めてだったのか? それまではラ・ポルトと一緒だったのか? ラ・ポルトについての記録はほとんど残されていない。しかし、その数少ない文書の中にはたとえば1608年2月21日付けのラ・ポルトの劇団契約文書21)があるが、そこにはアルディの名はない。座付き作者の資格では名前が記されることはないということなのだろうか? それとも、アルディはヴァルランでもラ・ポルトでもない俳優と行動を共にしていたのか? 1600年アンジェの文書と1611年9月2日の文書には、アルディは俳優として登場したが、1611年8月9日の文書では poète français の資格で登場する。作者 poète として契約文書に名前を記すのは極めて例外的なことだったのか? 残念ながら,いずれの問いにも確信をもって答えることはできない。

8、この文書が発見された結果、何が明らかにされたか? リガルが推測し、デイエルコーフ・オルスボエルも確信をもって断言したこと―アルディは早くからヴァルランの座付き作者となっていたという従来の「定説」―は完全に白紙に戻ってしまった、ということである。つまり、1611年までのアルディについては、1600年3月の文書に記されていること以外には、何一つ明言できないということである。あとは、未発掘資料が発見されるのを待つしかないだろう。

 以上紹介した私自身の発見にしても、たった一つの文書にもとづくものなので、リガルやデイエルコーフ・オルスボエルの研究に新たに付け加える ― または修正する ― 部分はわずかでしかない。100年前にリガルが嘆いていたように、「アルディはわが国の近代演劇の歴史に大きな役割を果たした。にもかかわらず、彼の生涯はほとんど知られていない」22)という状況は依然として続いている。

 研究は停滞したままなのか? 見た目にはそうである。しかしこの文書は、アルディについてだけでなく、1600年前後のフランスの演劇状況全体について再考を促すきっかけになり得るだろう。

 私は文書資料の再確認作業を通じてひとつのことを実感した。それは、未発掘資料が見つかる可能性はまだあるということである。実際、自分自身が国立文書館 Archives Nationales で調査してみると、デイエルコーフ・オルスボエルの見落とした(に違いない)文書がいくつも出てきたのである。しかもそれは、彼女自身が手にとって1枚ずつページをめくっていったはずの文書の束の中にあった。ヴァルラン・ル・コントの署名(特徴があってよく注意していればすぐに気づくほど分かりやすい署名)が記された未刊文書 documents inédits が複数見つかったのである。

 アンジェでも同じ経験をした。エミール・パスキエ Emile Pasquier が紹介した文書23)が収められているまさにその文書束のなかに、アルディに関するこの文書がひそんでいたのである。そればかりか、1606年の日付けをもつもうひとつの文書24)まで見つかったのだ。

 専門家といえどもうっかり間違いを犯すことも、見落とすこともある。歴史研究はすべからく原資料にあたるべしという基本を守るとき、思わぬ発見に恵まれることもあるのだ。人がすでに調べたはずの資料でも、改めて確認してみると、とんでもない宝物が埋まっていることがあるという実例である。だから、従来の「定説」を忘れて、もう一度新たな目で文書資料を見直すべきである。私が発見したものを含め、パリの国立文書館でも地方の文書館でも、すでにいくつかの資料が実際に発見されているのである。たとえばそれらの文書を手がかりに、改めて再調査をしてみたらどうだろう。

 私自身は残念ながらフランスに直接赴いて長期間にわたって資料調査に没頭することはできそうにない。せめてこの発見がテーマを同じくする他の研究者への参考、刺激になれば幸いである。もしもそうなれば、私のこの仕事も演劇史研究の進展にささやかながら貢献できたことになるだろう。

 

1) Mardi 9 août 1611 : Contrat par lequel Alexandre Hardy consent à livrer trois pièces de théâtre, etc. à Valleran le Conte et à ses compagnons (Alexandre Hardy poète français ; Valleran le Conte, Claude Husson sieur de Longueval, Jehan Gracyeux, Nicolas Gasteau, comédiens du roi), Paris, Archives Nationales, Minutier central ; XXXIV, 19 ; Folios IIcXLIIII (244) recto et verso, IIcXLV (245) recto. (Voir Alan HOWE, «Bruscambille, qui était-il?», in XVIIe siècle, oct-déc. 1986. p. 392 et n. 33. Voir auusi Alan HOWE, «Couple de comédiens au début du XVIIe siècle», in Revue d'Histoire du Théâtre, 1981-1. p. 20 et n. 35.)

2) Eugène Rigal, Alexandre Hardy et le théâtre français à la fin du XVIe et au commencement du XVIIe siècle, Paris, 1889. (Genève, Slatkine Reprints, 1970)

S. W. Deierkauf-Holsboer, Vie d'Alexandre Hardy, poète du roi, 1572-1632, Nouvelle édition revue et augmentée, Paris, Nizet, 1972.

3) J. Fransen, « Documents inédits sur l'Hôtel de Bourgogne », Revue d'Histoire littéraire de la France, juillet-septembre 1927, pp. 321-355.

4) «De documents authentiques, nul n'en a découvert. Le nom de Hardy n'est même pas prononncé dans le Dictionnaire critique de M. Jal ; ni les manuscrits de la Bibliothèque nationale, ni les registres des Archives ne m'ont rien fourni sur son compte, et le hasard seul pourrait faire découvrir quelque chose, par exemple une trace de ses pérégrinations en province.» (Alexandre Hardy, p.2.)

5) この番号のもとに1597年から1600年までの一連の文書 acte がまとめられている。各文書には文書番号は付けられていないが、その代わりに文書の冒頭には ― 後に文書を整理し直した時の書き込みと分かる字体で ― 日付けと内容が書き記され、全体が日付け順に並べられているので、それをもとに当該文書を見つけることができる。なお、今取り上げている文書には Société 22 Mars 1600 と記されている。

6) これまでたいていの場合 Jacob と記されているが、本人の署名に従い、Jacquault とする。

7) «Ainsi Hardy était dès le commencement du XVIIe siècle le fournisseur ordinaire de la troupe de Valleran ; il l'était encore à la fin de sa vie ; et nous avons vu qu'il l'était à certaines dates intermédiaires. Avons-nous le droit de conclure que, pendant tout ce temps, il ne l'a pas quitté ? Non, sans doute, mais il est naturel de le supposer, et les séparations, s'il y en a eu, n'ont jamais été bien longues. Admettons donc que, depuis la fin du XVIe siècle, Hardy a toujours suivi Valleran, et nous nous ferons une juste idée de sa carrière. Figurons-nous-le, quittant la province en 1599, arrivant à Paris plein d'espérences, et s'efforçant d'établir à l'Hôtel de Bourgogne les genres nouveaux qui avaient eu tant de peine à y pénétrer.» (Alexandre Hardy, p. 36.)

8) ヴァルランの劇団が1598年3月16日にパリでアドリアン・タルミーの一座と劇団契約を結んでいることが、デイエルコーフ・オルスボエル夫人が発見した次の文書から明らかにされている。ヴァルランがこのときパリにいたこと、そしてパリで上演を企てていたことの確証である。Cf. Contrat de société entre Valleran le Conte et Adrien Talmy, Paris, Archives Nationales, Minutier central ; XV, 5 ; Acte IIIIxxII (82). Transcription intégrale in S. W. Deierkauf-Holsboer, Vie d'Alexandre Hardy, Paris, Nizet, 1972, pp.171-174.
しかし、後述するように、ヴァルランの一座にアルディがいたという物的証拠は残念ながらない。というのも、この契約文書にはアルディの署名はおろか、アルディの存在自体に対する言及すらまったくないからである。

9) Vie d'Alexandre Hardy, pp. 32-41.

10) «A présent, c'est un fait avéré que le poète dès l'année 1597 ou le commencement de 1598 a été le poète à gages de cet acteur [=Valleran le Conte] et que celui-ci a monté en scène les tragédies, les tragi-comédies et les pastorales de Hardy.» (Vie d'Alexandre Hardy, p. 39.)

11) Vie d'Alexandre Hardy, p. 40. 文書館 Archives の記録だけに限定しても、私自身が発見した未刊資料 documents inédits も含めて、現在まで私が確認した限り、ヴァルランに関する記録の数は、他の俳優たちのそれを大きく上回っている。1595年から1606年までの文書については拙論「フランス演劇関係古文書資料一覧:1595-1600」(17世紀仏演劇研究会『エイコス』第10号、1996年7月、pp. 69-89)および「フランス演劇関係古文書資料一覧:1601-1606」(17世紀仏演劇研究会『エイコス』第11号、1997年4月、pp. 19-28)を参照されたい。なお、1607年から1612年までの文書資料一覧もいずれ刊行する予定である。

12) 註1参照。

13) vendredi 2 septembre 1611 : Bail par les comédiens du roi à Morlot d'une partie de la salle de l'Hôtel de Bourgogne (Valleran le Conte, Alexandre Hardy, Claude Husson sieur de Longueval, Nicolas Gasteau, damoiselle Rachel Trépeau, Savinien Bony, Jehan Gracyeux, Jacques Mabille, Guillaume Desforges, Sidrac Petit Jehan, tous comédiens du roi ; Claude Morlot bourgeois de Paris), Paris, Archives Nationales, Minutier central ; XV, 21 ; Folios VIIcXLIIII (744) recto et verso, VIIcXLV (745) recto. アルディはここでは俳優 comédien の一人として名を連ねていることに注意しよう。Deierkauf-Hosboer が発掘した文書のうち、アルディの署名入りのものとしてもっとも古い文書がこれである。Voir Deierkauf-Holsboer, Vie d'Alexandre Hardy, pp. 204-206, Appendice No 35.)

14) 戸口民也「ヴァルラン・ル・コントあるいは新しい演劇のために ― 17世紀フランス演劇史序説(その3)」長崎外国語短期大学『論叢』第29号、1986年(昭和61年)12月、pp. 1-17。とくにpp. 8-11を参照。今はこの部分をすべて削除し、新たに書きなおさねばならないと思っている。

15) ヴァルランに関係するこの前後数ヶ月間の文書をアンジェの文書とともに時間順に並べてみると次のようになる。

- 25 février 1600 Paris : Contrat d'association de Valleran le Conte et de Savinien Bony avec une compagnie italienne (Valleran le Conte, Savinien Bony, Saullo Donati, Jules Rize)

- 19 mars 1600 Paris : 内容未確認 (Valleran le Conte, sa femme Jehanne de Wancourt)

- 22 mars 1600 Angers : Acte d'association des comédiens du roi (Mathieu Le Febvre, Jacques Robineau, Fleury Jacquault, Calude Husson, Daniel Dugué, Alexandre Hardy)

- 13 avril 1600 Paris : Désistement du contrat d'apprentissage de Nicolas Gasteau (Valleran le Conte, Nicolas Gasteau)

これらをみれば、ヴァルランは1600年3月の前後はパリに滞在していたと考えてよいだろう。

16) 註1および註13であげた文書を参照。

17) Second accord entre les maîtres et les anciens maîtres au sujet des loges réservées, Paris, Archives Nationales, Minutier central ; X, 7 ; Acte LXXXI. Transcription intégrale in S. W. Deierkauf-Holsboer, Le théâtre de l'Hôtel de Bourgogne, tome I, Paris, Nizet, 1968, p.183-185. Voir aussi J. Fransen, «Documents inédits sur l'Hôtel de Bourgogne», Revue d'Histoire littéraire de la France, juillet-septembre 1927, pp. 330-331, 352. この文書には Valleran le Conte と Mathieu Le Febvre の名前が記されており、二人がこの時期 Hôtel de Bourgogne で上演していたことが確認できる。ただし、二人ともこの文書には署名していない。

18) Mardi 19 août 1603 : acte d'association des comédiens du roi (Angers, Archives départementales de Maine et Loire ; 5E5,93) ただし、この文書で契約に加わっている俳優は Jacques Robineau (La Bretonnière), Fleury Jacquault (Montfleury) et sa femme Colombe Vénière, Daniel Dugué (La Chesnaie) et sa femme Claude Piton, Léonard Dalanbour, tous comédiens du Roi ; Toussainctz Dallibert, Julien Bedeau, Callais Anquetif, François Bedeau, apprentis comédiens となってる。この文書については戸口民也「17世紀フランス演劇史研究ノート ― 1603年アンジェ:ある劇団協約文書をめぐって」(17世紀仏演劇研究会『エイコス』第5号、1989年、pp. 1-12.)を参照されたい。ただし、編集上の手違いから、肝心の文書のテキストに誤植がいくつか残ってしまった。機会を見て、訂正版を公表するつもりである。
次の文献も参照のこと。

- Emile Pasquier, «Les Archives notariales d'Angers», in Mémoires de la Société d'agriculture, sciences et arts d'Angers, 6e série, t. VIII (1933), pp. 5-22. Appendice III. Acte d'association des comédiens du roi, le 19 août 1603 à Angers (pp. 20-22).

- Jacques Levron, «Les origines des Comédiens du Roi», in Mercure de France, No du 1er janvier 1949. pp.91-96.

- Raymond Lebègue, «Compte rendu de l'article de Levron», in Revue d'Histoire du Théâtre, 1948-1949, IV, pp.292-294.

19) 9 février 1606 : acte d'association des comédiens du roi (Angers, Archives départementales de Maine et Loire ; 5E5,94). この未刊文書 document inédit に登場する俳優達は Fleury Jacquault (Montfleury) et sa femme Colombe Vénière, Robert Guérin (La Fleur), Pierre Janvier(?), Nicolas Gasteau, Léonard Dallembourg (Dalanbour), Hugues Leroulx joueur d'instrument である。なお、この文書の後には、同年同月15日の日付ではじまる文書(それぞれの取り分 part などを規定したもののようである)が添えられている。

20) Colombe Vénière と Estienne de Ruffin については Alan Howe, «Couples de comédiens au début du XVIIe siècle : Le cas de Nicolas Gasteau et Rachel Trépeau», Revue d'Histoire du Théâtre, 1981-I, pp.17-25 を参照のこと。

21) 21 février 1608 : acte d'association de la troupe de Mathieu Le Febvre (Paris, Archives Nationales, Minutier central ; V, 18 ; Folios CXIII (113) recto et verso, CXIIII (114) recto. Transcription intégrale in Deierkauf-Holsboer, Vie d'Alexandre Hardy, pp.191-193. ) 契約に加わっているのは «Mathieu Le Febvre, François Le Vautrel, Aubry et Claude Vautrel ses frères, Jacques Maugin, Mathieu Rubé, Robert Guérin, Marie Vénière femme de Mathieu Le Febvre» である。

22) «Hardy a joué un grand rôle dans l'histoire de notre théâtre moderne, et pourtant sa vie est fort mal connue.» (Alexandre Hardy, p.1.)

23) 註18で取り上げたMardi 19 août 1603 の文書。

24) 註19で取り上げた9 février 1606 の文書。


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