クレオパトラの鼻


 「クレオパトラの鼻。もしもそれがもっと低かったら、大地の全表面が変わっていただろう。」(パスカル『パンセ』)

 それにしても、パスカルのレトリックは独創的である。女性の美しさを「目」であらわすことなら誰でも思いつくだろう。たとえば「美しい目、麗しの瞳」les beaux yeuxという言い方などは、十七世紀当時のフランスでも、詩や劇のなかで頻繁に使われる月並みな表現だった。

 ところが「鼻」となると、顔の部分の中でも詩的なイメージをもっとも喚起しにくいものである。しかもこれを思い切り強調すると、美よりはむしろ醜悪や滑稽を強く印象づけることになる。芥川の『鼻』はそのよい例だろう。

 たしかに、つんとすました高い鼻は、ローマの英雄たちを惑わせたエジプト女王の美しさを象徴するにふさわしいものかもしれない。しかし「それがもっと低かったら」と言われたとたん、絶世の美女も形無しに思えてくるから不思議である。高貴と滑稽、美と醜悪のコントラストをあざやかに示すには「目」よりも「鼻」がまさっている、というわけだ。

 また「世界の歴史は変わっていただろう」とはせずに、「大地の全表面」と空間的な比喩を用いているところも一種独特な感覚といえるだろう。ひとつには幾何学的精神のあらわれと言えるかもしれない。だが「表面」faceは「顔」の意味でも用いられる語である。しかも顔全体を、とくにその滑稽さや異様さを強調するときに用いられることが多い。つまり、鼻が高いか低いかで美しかったはずの顔が滑稽に見えてくるように、わずかなことが原因で大地の相貌も一変する、ということだ。パスカルはこれらの言葉が結びついたときのイメージ効果を十分に計算しているのである。

 女王とはいえ一人の人間にすぎないクレオパトラの、それもたかが「鼻」ひとつがこれほど重大な結果をもたらすとすれば、人間のすることとは一体何か? この断章は、人間の行為の空しさと不条理を鋭くついているのである。


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