イエスの秘義


 なぜこの世に苦しみがあるのだろう。なぜこの世に罪や悪が存在するのか。病気、貧困、肉体的・精神的苦痛、そして死。重い病気を負っている人々、不慮の事故、災害、さらには犯罪や戦争の犠牲者たち。なぜこのような苦しみがあるのか。なぜこの人たちは、私の友人や家族は、私は、このような苦しみにあわねばならないのか。なぜ私たちは苦しみから逃れられないのか。

 私たちの理性はこの問いに答えることができない。もしも苦しみに意味がないとしたら、私たちの生は不条理としか言いようがない。私たちの死も私たちの存在もまた不条理であり、意味を失ってしまうだろう。もしもキリストの十字架がなかったとしたら・・・

 『パンセ』の中に「イエスの秘義」と題された断章がある。イエスの受難を黙想しながらパスカルが書き記した祈りである。

 「イエスはその御受難において人間が彼に加える苦しみを耐え忍ばれる・・・」

 父なる神は、人間の罪を贖い、人間を救うために御子キリストが十字架につけられることを望まれた。神の子イエスは、人間としてはなにひとつ罪がなく、しかも神として完全に「善」なる存在である。その罪なきイエスが、人間として、進んで不当な苦しみを死に至るまで耐え忍ばれた。キリストの十字架によって、神御自身が人間の苦しみを担われることを証しされたのである。

 「私は死の苦しみの中でおまえを思った。私はおまえのためにこれほど血を流した。」

 苦しみを摂理として受け入れるとき、人間はキリストと共に贖いのわざに参加し、神の生命にあずかることができる。

 「恐れずに、信頼をもって私のために祈りなさい。」

 キリストと共にあるとき、この世での苦しみは永遠の生命の喜びを約束する「信仰の神秘」となる。だから、パスカルは信頼をこめてイエスに向かって祈り、こう語りかけるのである。

 「主よ、私はあなたにすべてを捧げます。」


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