何かわからぬもの


 「何かわからぬもの」 ― 十七世紀前半のフランスのサロンで流行した言葉である。イタリアやスペインでも同じ表現がさかんに使われていたらしい。とくに、恋愛情念の原因となるもののことを、当時の人々はこう言っていた。なぜ人は恋をするのか、何が彼あるいは彼女の情熱をこれほどまでかき立てるのか、それはこの「何かわからぬもの」のせいであると。

 「人間のむなしさを知りつくしたいと思う人は、恋愛の原因と結果を考えてみればよい。原因は《何かわからぬもの》(コルネーユ)。しかもその結果は恐るべきものである。この《何かわからぬもの》は、認識すらできぬほどささいなものなのに、全地を、王侯を、軍隊を、全世界を揺り動かすのである。」

 実はこれは前回紹介した「クレオパトラの鼻」の前半部である。そしてこのあとに「クレオパトラの鼻。もしもそれがもっと低かったら、大地の全表面が変わっていただろう」と続いて、有名な断章が終わる。

 なぜカエサルやアントニウスがクレオパトラを愛したのか? その原因は「何かわからぬもの」、しかもそれが「大地の全表面が変わ」るほどの結果をもたらしたとすれば、この因果関係の驚くべき不釣り合いは一体なんだろう? 「人間の空しさ」を思い知るための格好の見本ではないか。

 だが、パスカルは人間の空しさを説いて事たれりとするわけではない。「考える葦」で述べたように、彼の目的は懐疑論者や無神論者に対してキリスト教の正しさを論証することにあった。そのためには、まず人間とはいかなる存在かを徹底的に知ることから始めよう、というのがパスカルの戦略だったのである。

 人間というこの「何かわからぬもの」、弱くて惨めであると同時に偉大な「考える葦」。「二つの無限」の中間に位置する、限りなく矛盾した存在としての人間の姿を鮮やかに描いていったパスカルの文章について、語りたいことはまだ多い。次回は「二つの無限」について取り上げるつもりである。


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