人生に意味を


 サン=テグジュペリという作家(1900〜1944)をご存知でしょうか。知らないという人も『星の王子さま』の作者といったらきっとわかるるでしょう。有名な本ですから、たとえ読んだことがなくても名前ぐらいはたいていの人が知っていると思います。

 ただ、実際に読んでみると『星の王子さま』は意外と難しい作品です。たしかに子供向けの本の体裁をとっていますし、作者自身による美しい挿絵までついています。にもかかわらず、作者がこの作品にこめたメッセージを理解することは、子供にはまず無理でしょう。いや、大人にだってそう簡単ではありません。

 子供のように純粋な心を持ちつづけましょう… たしかにそれも作者のメッセージのひとつかもしれません。でも、それだけでしょうか? よく読んでみると、もっとほかにも気になるところが見つかります。

 たとえばキツネが王子にこう言います。「肝心なことは目には見えないんだ。」「きみが、きみのバラの花をとても大切におもっているのは、きみがその花のために時間を無駄にしたからなんだよ。」「きみは、きみのバラの花に責任があるのだ。」そして、王子はキツネのこの言葉を聞いて、その意味を反芻するように繰り返します。「ぼくは、ぼくのバラの花に責任がある…」皆さんは、このやり取りのなかに、作家のどんな思いを読み取られるでしょうか?

 「肝心なことは目には見えないんだ。」キツネが王子におしえたこの「秘密」だけ考えれば、そう難しくはないかもしれません。「時間を無駄にする」という一見逆説的な表現も、わからないことはないでしょう。でも、「責任がある」とはどういうことだろう…

 『星の王子さま』のメッセージを理解しようとしたら、サン=テグジュペリという作家自身をもっとよく知る必要があります。そして彼を知ろうとしたら、まず『人間の大地』を読んでみるとよいでしょう。彼は作家であると同時に飛行士でした。『星の王子さま』に登場する飛行士「ぼく」のように、実際に砂漠に不時着して奇跡的に生還したこともあります。だから、「ぼく」がサハラ砂漠に墜落したという設定は、作者自身の体験をふまえているのです。

 サン=テグジュペリは『人間の大地』のなかで、飛行士という職業のこと、空から見た大地の姿、人間についての考察などを私たちに伝えようとしています。それはすべて、自分の職業上の体験を通じて彼が見たこと、考えたことでした。

 ではなぜ私はこの作家にこだわるのかでしょう? それはサン=テグジュペリが常に人間の自由や尊厳について考え、生きることの意味をたえずを追求した作家だからです。たとえば『戦う操縦士』の最後に近い章には次のような考察がつづられています。

 わたしの文明は、個人を通じての「人間」の尊崇のうえに成り立っている。それは何世紀ものあいだ、「人間」を啓示しようと努めてきた。いわば、石材を通じて大聖堂を見分けることを教えようとするように。わたしの文明は、個人を俯瞰するその「人間」を説いてきたのである…。
 なぜなら、わたしの文明の説く「人間」は、個々の人間から出発しては定義されないものだからだ。個々の人間は、「人間」によってはじめて定義される。「人間」のうちには、すべての「存在」におけると同様、その構成要素である素材からは説明されないあるものがある。大聖堂は石材の総和とはまさに別のものだ。それは幾何学と建築学である。大聖堂を定義するのは石材ではなく、逆に大聖堂のほうが、その固有の意味内容によって石材を豊かにしているのだ。それらの石材は、大聖堂の石材であることによって高貴になる。このうえなく多様な石材が大聖堂の統一に奉仕している。大聖堂は、もっとも醜悪な樋嘴(ひばし)にいたるまで、その讃歌のうちに吸収してしまうのだ。
 だがわたしは、すこしずつ、自分の真理を忘れてしまってきていた。「石」が多くの石材を要約するように、「人間」は多くの人間の要約であると信じてしまっていた。大聖堂と石材の総和を混同してしまい、その結果、すこしずつ、遺産は消え失せてしまっていた。「人間」を再興しなければならない。「人間」こそわたしたちの文化の本質だ。わたしの共同体の要石だ。わたしの勝利の原理だ。
(『戦う操縦士』山崎庸一郎訳)

 大聖堂を忘れた私たちは、自由の追求と称して、大聖堂の石材となることを望まずに、ただの石ころであることを選んでいるかのようです。人間的に生きたいと口では言いながら、現実には物質的に生きています。サン=テグジュペリは第二次大戦のさなかに「人間」の再興を訴えましたが、彼の言葉は50年後の今もそのまま通用すると言ってもよいでしょう。しかも、精神の危機という意味では、今日の方が事態はもっと深刻でさえあります。

 この私はいったい何のために生きているのか? 私の存在理由は何なのか? 気が重くなる問いかもしれません。そんなことなど考えないようにして日々を過ごす方が、たぶん楽かもしれません。しかし、この問いから逃げ続けることはできないでしょう。あるとき、ふと考えてしまう。私の人生はいったい何なのか、何だったのか、と。  避けて通ることも忘れたふりをすることもできないのなら、むしろすすんで自分に問いかけてみるべきでしょう。サン=テグジュペリは次のようにも語っています。

 たとえどれほどささやかなものであろうと、自分の役割に気づいたとき、はじめて私たちは幸福になるだろう。そのときはじめて、私たちは平和に生き、平和に死ぬことができるだろう。なぜなら、生に意味を与えるものは、死にも意味を与えるからだ。
(『人間の大地』)

 自分の役割に気づくこと、そこに問題を解く鍵があると私は思います。サン=テグジュペリのような生き方は、誰にでもまねられるようなものではありません。しかし、私たちもこの世界のなかで、たとえどんなにささやかであろうと「自分の役割」をもっているとわかったなら、そしてその役割を誠実に引き受けようと努力しながら生きて行くなら、私たちは自分の人生に意味を与えることができるはずです。

 世の賞賛を集める英雄になる必要はありません。私たちの大部分は、そのようにつくられてはいないのです。もしも私が今のようにではなくもっと才能に恵まれていたら、もっと大きな機会を与えられていたら…などと考えるのは、おろかなことでしょう。むしろ日常のこまごまとした仕事をたんねんに行いながら、家族や隣人のため、社会のために尽くそうと努力することにこそ、大きな価値があると思います。

 サン=テグジュペリは大聖堂の比喩を使っていましたが、私たちの仕事はまさにその大聖堂の建設に従事しているささやかな労働者一人ひとりがしていることにもたとえられるでしょう。大聖堂の建設には何十年、何百年の歳月と、おびただしい数の労働者が必要です。一人ひとりのすることは、巨大な建物全体から見ればちっぽけなものに違いありません。しかし、そのちっぽけな仕事が長い時間をかけて、多くの人々に受け継がれることによって、ついに大聖堂が完成します。石材のひとつずつしか見なければ、それはなんの価値もないかもしれません。しかし、それが大聖堂をつくる石のひとつとなり、建物全体のなかで存在する場を得たとき、それは大聖堂そのものがもつ高貴な意味をわかちもつことができるのです。

 最初にとりあげた『星の王子さま』のメッセージについて振り返ってみましょう。

 フランスがドイツに占領され、サン=テグジュペリはアメリカ亡命を余儀なくされていました。そのアメリカで彼はこの童話を書き上げ、再び戦場に戻って行きます。そして、1944年、偵察飛行に飛び立ったまま戻りませんでした。

 私はこんなふうに考えています。「ぼくは、ぼくのバラの花に責任がある…」キツネに教えられた王子はそのことに気づき、自分の星に帰って行きます。その王子に、サン=テグジュペリは自分のひそかな思いを托したに違いない、王子こそ作者の分身であって、飛行士「ぼく」は王子を通じて語られる作者のメッセージを私たち読者に伝えるための証人である、と。

 『星の王子さま』にこめられたメッセージを私がどう読み取っているか、おわかりいただけたでしょうか。

 さて、それでは「バラの花」はいったい何を象徴しているのでしょう? 答えは皆さんにおまかせすることにしたいと思います。


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