「不実な美女」


 Les belles infidèles というフランス語の表現がある。発音をとりあえずカタカナで表すと「レ ベ ザンフィデー」となるだろう(下付の文字は軽く、弱く発音するとよい)。

 — えっ、こう書いてそう発音するのですか? フランス語って難しい!

 — いやいや、そんなことはないです。フランス語には、こう書いてあったらこう読むという「きまり」がはっきりあって、それさえ覚えてしまえば読み方はわかるのです。3週間もあれば、基本をマスターできるでしょう。実は英語よりずっと楽ですよ。

 Les belles infidèles というのは、文字通りの意味は「不実な美女」あるいは「麗しき不実な女(ひと)」であるが、実は「原文に忠実でないが見事な訳」のことを言うのである。なぜそうなるのだろう?

 歴史の講義になるが、少し我慢して聴いてほしい。

 16世紀といえばフランスはルネサンス時代。イタリアの影響を受けて、古代ギリシャ・ローマや当時ヨーロッパの最先進地域だったイタリアの学問芸術をむさぼるように輸入したのがこの時代である。

 — ものだけでなく、人間までスカウトして連れてきたのですよ。あのレオナルド・ダ・ヴィンチも、当時のフランス王に招かれてフランスにやってきて、そのままフランスで死んだのです。有名な「モナ・リザ」の絵は、レオナルドが最後まで手放さずに持っていたのを、死に際してフランス王に寄贈したのです。それが今ではルーブル美術館の宝になっているのですね。

 — へえー、そうだったんですか・・・

 ルネサンス時代のフランスでは、古代ギリシャ・ローマの原典がギリシャ語やラテン語から盛んにフランス語に翻訳された。それがフランス語を豊かにするとともに、混乱させもした。次の17世紀は、前の時代に対する反省から、フランス語の「正しい使い方」を確立し、フランス語を古典語(つまりギリシャ語やラテン語)に匹敵する言葉へと高めようとした時代である。

 17世紀になっても古典の翻訳は依然として続けられていたが、翻訳のあり方について活発な議論が行われた。とくに、ある古典学者の翻訳については、賛成派と反対派が真っ向から対立した。これこそすぐれた翻訳である、翻訳はかくあるべしと主張する賛成派に対して、訳文だけを読めば流麗なるフランス語だが原文には忠実ではないと反対派は批判したのである。この論争の渦中から生まれたのが les belles infidèles という表現である。意味するところは先に紹介したように「原文に忠実でないが見事な訳」だが、文字通りに読めば「不実な美女」あるいは「麗しき不実な女(ひと)」ということだ。

 — でも、なぜ女性なのですか?

 — それはね、「翻訳」 traduction というフランス語が女性名詞なので、女性にたとえているのです。

 — えっ、女性名詞って、名詞が女性なんてことがあるんですか?

 — ええ、そうなのです。ヨーロッパの言葉は名詞は男性名詞・女性名詞に分かれているのが普通で(言葉によっては中性名詞まであるのですよ!)、英語みたいに男性・女性の区別がない言葉は例外なのです。それはともかく、もしも「翻訳」 traduction が男性名詞だったら、「不実な美女」のような表現はきっと誰も思いつかななかったでしょうし、たとえ思いついたとしても使う気にはならなかったでしょうね。


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