トアル教授の演劇論

トアル先生との対談:番外編(1)


A+S:ところで教授は、若かりし頃、演劇に関わっていたと伺いましたが。

トアル:《若かりし頃、関わっていた》というのは必ずしも正確ではありません。すこし理屈っぽくなりますが、説明しましょう。

《演劇に関わる》と言うと、普通、劇を《上演する》側に立つことを意味します。役者として舞台に立つとか(プロの役者とは限らずアマチュアとしてでも ― 以下同様)、演出する、台本を書く、裏方として舞台を支えるといった形で《舞台作り》をする、などといったことですね。私の場合は、一貫して劇を《見る》側にいました。芝居を見始めたのは高校生の時です。最初は好きで芝居に通っていたのが、やがて演劇を自分の研究対象とするようになりました。そうした意味では演劇に《関わる》ようになったと言えないわけではありません。そしてこの《関わり》は、フランス17世紀の演劇研究という形で今でも 続いています。

では、なぜ演劇なのか? 話し出したらきりがなさそうなので、できるだけ手短にすませましょう。

演劇との出会いは ー といっても、舞台ではなく戯曲との出会いが先でしたが ― 高校時代にさかのぼります。まずはシェークスピアを読み始めました。とくに喜劇が面白いと感じましたね。そのあと、マリヴォーというフランス18世紀の劇作家を《発見》しました。そのとき読んだのが『愛と偶然の戯れ』という実に洗練された恋愛喜劇です。恋の発端から急速な進展、紆余曲折を経て最後には(喜劇ですから当然のことですが)めでたく結ばれる二人という、ある意味ではおきまりのパターンなのですが、恋人たちとそこにからむ人物たちの台詞の妙に、目を見張りましたね。

A+S:《台詞の妙》ですか?

トアル:ええ、そうです。ただ、《台詞の妙》の話に入る前に、小説と戯曲の違いを説明しておいた方がよいでしょう。だから、ちょっと寄り道をさせてもらいますよ。

小説というのは、ある意味、読者に対して実に親切丁寧なもので、何でも説明してくれます。ある場面とそこに登場する人物を描くとき、その場面の状況から、登場人物の気持ち、彼または彼女の表情や仕草、ときには声の調子まで、いろいろと教えてくれます。もちろん、登場人物の台詞もありますが、それ以外の様々なことを事細かに書き込むのです。

ところが戯曲は違います。基本は台詞だけ。それ以外のものはありません。その台詞を役者が舞台でどう語るかは、舞台を見るか、それがだめなら自分で想像するしかありません。

小説と戯曲の決定的な違いは、小説は本の形になったとき完結するジャンルであるのに対し、戯曲は役者が舞台で演じることが前提となっていて、それ自体で完結するものではないということです。上演に向かって《開かれている》テキストなのです。台詞だけを頼りに、それ以外の、作者が説明してくれていないすべてのことを補い肉付けするのは役者の仕事です。あるいは戯曲を読む読者の仕事でもあります。《本》としての戯曲のおもしろさは、実はそこにあると言ってもよいでしょう。

A+S:なるほど。

トアル:話を元に戻しましょう。さきほど《台詞の妙》といいましたが、それはどういうことでしょうか。

繰り返しになりますが、戯曲に書かれているのは登場人物たちが語る台詞だけで、それ以外の説明は基本的にありません。ところで、文字に書かれた言葉は、それ自体では、ある意味《無色透明》です。その言葉を語る人が、どんな表情で、あるいはどんな口調でそれを語っているかによって、それが実際にはどういう意味を伝えようとしているかが決まってくるのです。例えば、「見事なもんだ」という台詞があるとしましょう。字面通り、「見事だ」とほめていると受けとめるのが普通でしょうが、人間はしばしば言葉を裏返しの意味で使ったりもします。実は、「ひどいもんだ」と言っているのかも知れません。もちろん、劇作家はそのくらいのことはよく知っていますから、台詞の本当の意味が曖昧になるようにはしません。話の流れや、それまでやりとりした台詞から、登場人物同士の関係とか、それぞれの人物の《人となり》が、読者に(そして最終的にはその芝居を見に来ている観客に)よく分かるよう配慮しつつ、台詞を書き、組み立てていきます。ある台詞を取り出して読むだけでは《無色透明》なままで、どういう《含み》があるのかはっきりしませんが、話の流れの中においてその台詞をみれば実はよく分かる ― そんなふうに書かれているのです。それも、ただ《分かる》というだけではありません。登場人物の心が《透けて見える》ように分かる ― そこまでいくのです。まさにそれが作家の腕の見せ所なのですが、わかりやすくするため、二つほど例をあげてみましょう。

たとえば、自分自身が分からなくなって、「私は一体どうなったのだろう!」と叫ぶ主人公がいるとします。そう叫んでいる彼または彼女の《内面》は、当人よりも読者(観客)の方がよく分かってしまう。芝居を見たことがある人なら、そんな経験をしたことはきっとあるでしょう。― いや、たとえ戯曲や芝居には縁がなかった人でも、いままで見た映画のなかに、似たような場面があったのを思い出すのではないでしょうか。

A+S:たしかに、そういうことってありますね。

トアル:あるいは、もう少し複雑になりますが、こういうケースはどうでしょう。自分が恋をしてしまったことに気づかないヒロインが、恋する相手に向かって訳が分からないことを言ったりしたりします。しかも、自分がそういう状態にあることを、ヒロイン自身は自覚していません。相手の方も、ヒロインのことが好きになってしまっているのですが、そのことを認めるにはまだ至っていません。それで、ヒロインの態度にとまどいながら、なんとか応じようとしているのですが、ヒロインの方は相手の言うことなすことすべてが何故か気にさわって、ますます訳が分からなくなる・・・

A+S:ふむふむ。

トアル:このふたつの例は、実は先ほど話題にしたマリヴォーの『愛と偶然の戯れ』を下敷きにして少し手を加えたものですが、戯曲を読む読者、芝居を見ている観客には、一連の台詞のやりとり(それ自体をとってみれば意味不明で支離滅裂とも見えるような言葉の連続)の《意味すること》がいちいちよく分かるし、ヒロインとヒーローの(当人たちも気づいていない)心の動きがまるで手に取るように見えるのです。

A+S:なるほど。

トアル:すぐれた戯曲は、本として読むだけでも面白いものですが、舞台で見ればなおのこと面白いですよ。ただし、役者たちの演技がまずければ、せっかくの名作も台無しですが。

ところで、演劇の本質は、俳優がそれぞれの登場人物を演じること、われわれがその《上演》を目の前で見るところにあります。小説と戯曲の違いはすでにお話ししましたが、今度は、映画と演劇との違いについて考えてみましょう。

俳優たちが演じるという点では、映画も演劇も同じです。しかし、映画は役者の演技が(演じられている場面を含めて)映像として記録されるものです。しかもその演技は必ずしも連続してはおらず、また、俳優たちの演技を撮影するカメラは、様々な角度から、ときには遠くから、ときには近くから、映像を切り取っていきます。うまくいかなければ演じ直し、撮り直します。そうやって何十回、何百回にも分けて撮影されたフィルムを、後で編集して完成させるのです。そうやってできあがった《作品》は、その形に固定されたまま、それ以上手の加えようがない、ひとつの完結した《世界》をつくります。同じ映画は、いつどこで見ても、同じですね。それはもはや変わることはい、《閉ざされた》世界といえるでしょう。

これに対して演劇作品は、常に上演に向かって《開かれて》います。そして、上演されるごとに、その時だけの、やり直しがきかない一回限りの《舞台》がつくられます。幕が開いてから閉まるまでの、たかだか2時間前後の間に、すべてが演じられ、その《舞台》が完結します。ただ、それはその日の ― その日だけの ― 《舞台》だと言わなければなりません。たとえ同じ劇が同じ俳優たちによって毎日のように続けて上演されるとしても、それぞれの《舞台》はそのときだけのもので、前のとも次のとも違います。そしてこの《一回性》が、演劇(さらにはオペラや舞踊など舞台で演じる芸術)の特徴でもあります。役者の調子が良ければ観客もそれに反応し、それをまた役者が感じ取ってさらに舞台が盛り上がる。そうなると、素晴らしい《舞台》ができあがります。しかし、そうでないときもあります。役者の調子が悪いのか、演技に冴えがない、歯切れが悪かったりもたついたりする。そうなると、観客もしらけてきて、舞台も客席もだらけてしまいます。その意味で、《舞台》は生き物のようなものです。そして《舞台作り》は、俳優(それに劇作家・演出家・裏方を含む《上演する側》の人間たち)だけでなく、それを実際にその場で見ている観客も加わってつくり上げる、集団的《創造行為》と言うことができるでしょう。しかも、すでに話したように、そうやって実現された《舞台》は、一回限りのもので、そうであるがゆえに、とくに素晴らしい《舞台》ができあがったときの感動は、何物にも代え難いものがありますね。その場に居合わせたこと、そこで共有した時間は、まさしく《特権的瞬間》というべきでしょう。この《特権的瞬間》を一度でも味わった人なら、演劇とは何か、その魅力がどこにあるのか、きっとわかったことでしょう。

A+S:そう、わかります。演劇の魅力とは、その《特権的瞬間》にあるわけですね。

トアル:手短に話すつもりが、ずいぶん長くなってしまいました。演劇について語り出すと、つい止まらなくなるのです。

戯曲を通じて知った《台詞の妙》を、今度は実際の《舞台》で味わってみたくなり、芝居に通っているうちに、やがて深みにはまってしまい、ついには演劇研究にのめりこんで、それがいまでも続いている・・・ これが、私と演劇との《関わり》というわけです。― ということで、芝居の話、この辺で幕といたしましょう。

A+S:ありがとうございます。演劇の魅力の一端がわかったような気がします。